63 / 245
『悪い事をしたくなる』
「肌が冷たいな。部屋に着いたらシャワー浴びようか」
錦の肩を抱き寄せて受付を通さずにそのままエレベーターホールまで移動する。
海輝の表情はいつも通り穏やかなものだが、肩を抱く手に力がこもる。
「すまなかった」
「君が謝る事じゃないよ。怪我人も幸いにしていない。ドアは契約している工務店に修繕依頼をしてる。 君が憂える事は何もない。だから、この話はもうおしまい」
「――手にこもる力加減が何時もと違う。怒りか恐れのどちらに分類する?」
肩から手を外される。
海輝は困ったように笑う。
「怒らないのか」
「怒る要素なんてない。――君が無事かどうかだけだ」
海輝が真っ先に錦の心配をするから余計に苦しくなる。
「真っ先に言うべきことだったのに、自分の事ばかりで、どうかしていた」
どうかしている。
海輝の怒りを買う不安が有ったから口を閉ざしたのではない。
誤魔化そうとする方がまともだろう。
気を失って眠ってその後、海輝会いに行くときには――我ながら驚くべきことに――既に事故の事など頭になかった。
目が覚めた時は、一時間程度前の出来事だった筈だ。海輝に会う事以外頭になかったのだ。
口では何といおうとも、罪悪感が無かったと言う証拠だ。
許される筈はない。
「頭が可笑しくなったのかも知れない。やはりお前は俺を怒っても良い筈だ。その権利がある」
君は相変わらず真面目過ぎる。そう海輝はおおらかに笑う。
「損壊に関しては本当に怒ってない。責任があるなら若狭さん達だろう? 謝罪なら彼がすべきことで、君がする事じゃない。何方かと言えば、今すぐ抱きしめたいくらいに安心してる」
「抱きしめないのか」
「人目があるから君が嫌がると思って」
エレベーターホールには時間が時間だからか移動客がいない。
「エレベーターの中なら良い?」
「……許可なんか得なくても良い」
すると彼は噴き出す。
「勝手に抱っこしたら怒るじゃん。本当、可愛いんだから」
恐る恐る海輝の方に手を伸ばし、小指を握る。
視線が絡み慌てて目をそらす。
「手なら繋いでも良いぞ。頭も撫でたければ撫でても良い。撫でたそうな顔をしてる、撫でろ今すぐ撫でろ」
「罪悪感で許容範囲が広がってるなら危険だな。付け込みたくなる」
「付け込まれているとは思わない。お前には俺に触れる権利がある」
「悪い事をしたくなるな」
「どんなことだ。してみてくれ」
「君ねぇ」
「俺が良いと言ってるんだから、すれば良い」
首を傾げ頭を差し出すと海輝は笑い、錦の髪を撫で頭を抱きしめた。
「困るな。何でも許したくなる」
許したくなる、つまりは許せない事があると言う事なのだ。
口では怒っていないと言いながらも、やはり怒ってるのだろう。
「悪かったとは思ってる」
「本当に怒ってない、って言っただろ? 僕が気にしてるのは、此処に来るまでの君の態度と言葉の意味だ」
乗り込んだエレベーターのドアが閉まると同時に、強く抱きしめられた。
ともだちにシェアしよう!