70 / 245
『愛されていると言うリアルな証拠』
覗き込まれた顔を反らすと、エレベーターが三十七階に到着する。
ドアが開くと海輝はすっと体を離し、錦の指を引っかける様に指を絡ませ手を引く。
視線をあげると海輝は微笑んだ。
海輝の言葉を、辿ると霧が晴れていく。
好きな相手には良い自分を見せたい。
ごく当たり前の事だと彼は言う。
その言葉に、鬱屈としていた気持ちが軽くなる。
そうか、当たり前なのか。
「もう一つ、良いか?」
「うん」
「先程お前は不安になると言ったな。何故不安になる? その矛盾は何なんだ」
彼は自分に自信があると言った。
自分自身の判断に疑いを持たない者が、なぜ矛盾を抱く。
海輝は錦程に無知ではないから、すでに回答を導いている。
踏み込み過ぎだろうかと躊躇したが、彼なら答えてくれると言う確証が有った。
「俺の言動が許せなかったのは、束縛や嫉妬を見せないと安心できないと言う風に聞こえる」
愛されていると言うリアルな証拠。
発露する独占欲を目にしなくては安心できないのは、大きな食い違いがある。
「もう一度言うけど、僕は君を誰よりも信頼している。君は恋人以外の誰かにここまで距離を許す様な子じゃないと理解してる。僕の事を慕ってくれてるのも、君にとって僕が特別なのも分かってる」
理性と感情は別だと言った、その先が知りたかった。
好意のある相手に良い顔を見せたい。
それが当り前だと彼は言った。
上辺を取り繕い、理想の自分を演じる事が欺瞞ではないなら。
感情の矛盾はどう説明できる。
錦の悩みの種は、自分への自信喪失と疑念からくる海輝への罪悪感だと彼は判断した。
ならば、海輝が感じる不安の正体はいったい何だと言うのだろう。
錦にとって、唯一無二の存在である彼を悩ませるものは何なのか。
もしもそれを埋める事が出来たら、与えられてばかりではない。
本当の意味で対等な恋人になれる。
「人は経験により己の世界を構築し、成長の過程で自分以外の世界との調整を図る。僕と君は恋愛の経験がないので、互いの感情の調整を図る所までたどり着けていないだけの事だ」
経験したことのない愛の交換、始めて得た恋人と言う存在。
誰の物にもなって欲しくない、側に居る事が幸せだと言う事意外に共感を生むにしては、分からない事が多すぎる。
「思い合う事は素敵な事だし、何よりも尊いと思う。でも恋愛における自己犠牲的な言動は、独善的な物でしかない。僕は君が大好きだけど、良かれと思いすることが君を苦しめる結果になる事も知っている。今はどうしたら良いか迷う事も多い。きっと、一年後、二年後にはこんな風に掴みどころのない気持ちを感じる事は無いのかもしれない。でも、まだそこまで辿り着けない」
「自分が自分じゃないと感じる事はないか? コントロールできない気持ちに嫌にならないのか」
「ならない。君に関わるものなのに、嫌に何かならない。君が君である限り変わらないのと同じだよ」
錦にとってはどんな海輝でも、彼が彼で有る限りは変わる筈もない。
「時々情けない自分に気付くこともある。昔の自分の方が迷いが無かったと思う事もある。でも、僕は今の僕が嫌いじゃない。今の僕の方が好きだとも思う。月並みな言葉になるけど、人を愛することは何よりも素晴らしいと本気で感じてる。君のお陰だ」
解けそうになる指を握りこむと、同じだけの力で握り返される。
硬く結びついた指から、海輝の温もりが流れ込む。
一つの体温で繋がった気になり満足感に満たされる。
ともだちにシェアしよう!