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『強く肌に食い込む』
錦は湯気で曇るガラスを掌で拭う。
筆で刷いた様な跡を残し、僅かに視界が開けたガラス越しに口角を僅かにあげてみせる。
来るなら最初から来れば良かったものを。
「来たのは良いが、遅かったな」
呟く声はタイルを叩く水音に流された。
彼はカウンター前でいそいそと服を脱いで、迷うことなくシャワーブースへ向かってくる。
気分が少し上昇した。
ドアが開き冷気が背を撫でる。
「結局来たな」
「うん」
彼に背を向けたままハンドシャワーの水栓を閉めて項から首筋、鎖骨へと泡に塗れたスポンジを滑らせる。
きめ細かい濃密な泡がクッションの様な弾力で肌に伸びて気持ちが良い。
「遅かったな。もう終わるぞ」
「うん」
「レインシャワー使うのは初めてだが、良いなこれ」
掌で霧雨を受け止めると肘から泡が滴り落ちてタイルで弾ける。
「そう」
最低限の言葉しか返らない。
結論から言えば会話が弾まない。
それよりも先程から海輝の様子が如何もおかしい。
はやる気持ちを抑える様に衣服を脱いでいたくせに。
何故か、ブースの中に入ってこない。
おかしい、どういう事だ。
まさか気が変わったとかふざけた事を言うならば、一体如何してくれよう。
「浴びるんだろ? 直ぐに終わるから少し待ってくれ」
「……ん」
話しを聞いているのかも疑わしい不明瞭な返事に、眉間にしわを寄せる。
「……ドアを閉めろ」
ついには無言になった海輝にいよいよ不審感を募らせて振り返る。
「大体いつまでそうやって突っ立ってるんだ。返事くらいしろ。お前は第一次反抗期で何でも嫌がる子供か? 第二次反抗期に父親を嫌悪する女子か?」
ドアに寄り掛かる様にして、錦を見つめてくる眼差しが強く肌に食い込む。
先程リビングルームで絡んだ視線の吸引力とも違う。
強くぶつけてくる視線に棒立ちになり、体を洗う手も止まる。
無言で粘着的な視線はこちらを追い詰める様な圧を孕む。
不安が胸を掠めた。
異様な鋭さは、いっそ怒気に近い気配を纏い酷く心地が悪くなる。
「――海輝?」
白い泡が上気した肌を幾筋も道を作り流れ落ちる。
それを追う様に海輝の視線が胸元から腰回りに纏わりつき、思わず咳ばらいをするとようやくドアを閉めブースに入ってくる。
二人で入ると少々狭い。
「何だ。言いたいことが有れば言え」
妙に落ち着かず緊張すら覚える。
饒舌な彼が無言になると碌な事が起こらないので、たまりかねて言った。
張りつめた空気が緩み、海輝が僅かに笑う。
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