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第9話 ②
槙野完路から瀬野完路になり、この町に初めてやってきた日。
何もかもがもうどうでもいいと、完路は思っていた。
ただ静かに暮らしたい。
誰も俺の事など気にかけないでほしい。
興味を持たないでほしい。
そう思っていた。
それなのに・・
そんな思いはあっという間に『彼』との出会いで吹き飛ばされた。
暑い夏の日。
炎天下の中、祖母の家の前に立っていた小さな人影。
その小さな体を勢い良く動かして、彼はブンブンと完路に向かって手を振っていた。
祖母から紹介された近所の少年。
和泉宝。
何も悩みのなさそうな顔でニコニコと笑う、自分とは真反対のところにいそうな人間。
そんな宝に完路がまず抱いたのは警戒心だった。
何を考えているんだろう?
祖母はこいつに俺が俳優の息子だって言ったのだろうか?
だから近づいてくるのか?
東京にいた頃に芽生えた疑心暗鬼が再び甦る。
しかし宝は完路が何か言うたびにキラキラとした瞳で見つめてきた。
一体何を期待しているのだろう。
俺と仲良くなったって、もうあいつは関係ないのに。
そのうちこいつも、俺といたってつまらないとか言い出すんだろう。
何か言うのも面倒くさい。
勝手に離れて行くまで適当に相手をしていよう。
そう思っていたのだが、宝は出会った日から毎日のように家にやってきた。
きっと夏休み中で暇なのだろうと完路は思った。
「かんちゃん!かんちゃん虫好き?」
勝手につけたあだ名で宝はなんの遠慮もなく呼んでくる。
もうこの頃には完路は自分の名前が嫌いで仕方がなかったが、宝から呼ばれるそれには不思議と嫌悪感を感じなかった。
しかし、かんちゃんなんて今まで誰にも呼ばれたことがなかったので、まだそれが自分のことなのだという実感が湧かない。
「虫は・・そんなに好きじゃないかも」
完路がそう答えると宝は少しシュンとした。
「そっかぁ。この間山で珍しい虫見つけたから、今度かんちゃんと捕まえに行こうと思ったんだけど・・」
「・・俺じゃなくて他の友達と行ったら?」
「俺はかんちゃんと行きたいの!」
「・・・」
「・・かんちゃん?」
「なんで・・」
「へ?」
「なんで俺と行きたいの?」
完路は心に浮かんだ疑問を宝に投げかける。
だって、出会ってまだ数日だ。
しかも俺はそんなに口数の多い方ではない。
大した会話なんてしていない。いつも宝の話を聞いているだけなのに。
「なんでって、かんちゃんにもっとこの町のこと知ってもらおうと思って!!」
「・・え」
「きっと東京と比べたら何もないようなとこだけどさ、かんちゃんが気にいる場所もあると思うんだ!せっかく引っ越してきたんだし、この町好きになって欲しいじゃん!」
そう言って宝はニコリと笑った。
「・・・」
完路は自分が自惚れていたような気持ちになって恥ずかしくなった。
きっと宝も自分に興味があって寄ってくるのだと思い込んでいたからだ。
しかし宝は逆だった。
この町に興味を持って欲しいと言っている。
その瞬間、ずっと完路の心に張っていた防衛線のようなものが緩んだ。
宝となら、友達になれるかもしれない。
完路はそう思った。
それから最初の登校日。
初めての転校で顔には出さないようにしていても、完路は内心緊張していた。
しかしそんな緊張も教室に入った瞬間に聞こえた「かんちゃん!」と言う宝の大きな声で吹き飛んだ。
自分のことを『瀬野完路』として見てくれる初めてのクラスメイト達。
ここでなら自分は自分でいられるだろうか。
しかし、そんな願いもすぐに打ち砕かれた。
転校してきて数週間で、完路の父親が『槙野遼』であることが知れ渡ったのだ。
明らかに昨日までと自分を見る目が違う・・完路はそう思った。
転校生に向けられていたキラキラとした好奇心の瞳は、芸能人の息子を興味本位で見るギラギラとしたものに変わったように感じた。
もう、自分とあの人は関係ないのに。
血は繋がっていても家族じゃないのに。
いつまであの人の存在は自分について回るのだろう。
誰も『俺』を見てくれない。
そう絶望しかけた時だった。
「あんたらはかんちゃんのお父さんやお母さんのことしか興味ないんだろ!それなのにかんちゃんと仲良くしようなんて、かんちゃんのことバカにするなよ!!」
そう言って・・一生懸命叫んでくれたのは宝だった。
それだけでも完路は嬉しかった。
しかし宝はさらに完路を救う言葉を言ってくれた。
「かんちゃんはな!めちゃくちゃかっこいいんだぞ!!親が芸能人でもそうじゃなくても、かんちゃん自身がめちゃくちゃかっこいいんだ!!かんちゃんのことをちゃんと見てないやつが、かんちゃんの友達になる資格なんてないからな!」
それは、完路の中で宝が『特別』になった瞬間だった。
自分を見てくれている。
『槙野遼の息子』ではなくて『瀬野完路』を。
今にして思えば、単純に宝は芸能人に興味がなかっただけだろう。
それでも・・
あの時、ずっと自分の中で溜め込んで渦巻いていた感情を、宝が代弁するかのように吐き出してくれたのが嬉しかった。
宝だけは信じられると、完路はそう思った。
それからも、こういうことは何度もあった。
クラスが変わるタイミングなど、新たな出会いのたびに『芸能人の息子』の噂が湧き上がる。
特に中学校に進学してからは、女子生徒からの反応に大きな変化があった。
よく知らない先輩や同級生から呼び出されては、告白を受ける。しかしその多くからは明らかに恋愛感情ではないものを感じた。
何のための告白かなんて、考えるまでもない。
「完ちゃん今日も昼休み呼び出されたでしょ?!」
学校からの帰り道、宝はニコニコとしながら聞いてきた。
「あぁ、まぁ・・」
「やっぱり完ちゃんはかっこいいからなぁ〜」
宝はそう言ってへへっと空を見上げる。
自分に対して好意を持ってるうえでの告白ではない・・
彼女達が求めているのは俺自身ではない。
しかし、それを宝に知られてしまうのが嫌で完路は黙った。
宝はいつも「かっこいい」だとか「憧れる」だとかキラキラとした瞳で言ってきてくれる。
その瞳を曇らせたくないと完路は思うようになっていた。
宝の前では「宝の理想の自分」でありたかった。
中学二年の冬。
その日は学校中の生徒がソワソワと浮き足立つ日だった。
完路と宝が体育の授業を終え、更衣室で制服に着替えて教室に戻ると先に戻っていた何人かの男子生徒がワイワイと騒いでいる。
「俺の机の中、チョコ入ってた!」
「マジかよ!!誰から誰から?!」
「俺の中はぁ!・・入ってない・・」
喜んだり落胆したりしているクラスメイト達を横目に完路は自分の席に着く。
すると座ってすぐに、机の中にギュウギュウに押し入れられているいくつかの箱が目に入った。
教科書が取り出せないので、完路は仕方なくそれらを引き出して机の上に並べた。
「うぉ!さすが瀬野!!」
並べられたチョコの箱を見て一人の男子生徒が声を上げる。
「なになに?!何個もらったの?!」
そう言って男子生徒達が完路の周りに集まってきた。
「別に・・そんなにもらってないから」
完路は注目されたくなくて、とっさにそれらを机の横にかけられていた手提げ袋の中に入れた。
「えぇ!なんだよ教えろよー」
「そうだよ、ケチだなぁ!」
男子生徒達がつまらなそうに口を尖らせる。
そしてその中の一人がボソリと言った。
「やっぱ親が芸能人のやつはちげーよなぁ」
机に乗せていた完路の手がピクリと動いた。
そんなこと言われなくたってわかっている・・
完路がジッと手を握りしめたまま下を見ていると、宝の明るい声が教室に響き渡った。
「わぁ!完ちゃん去年よりめっちゃもらってんじゃん!!俺なんて今年も一個ももらってないのにー!!」
宝はそう言って完路の手提げ袋の中をゴソゴソと探る仕草を見せた。
「何やってるの、宝・・」
完路は屈んで丸まっている宝の背中をポンと叩く。
「体育の後でお腹すいたんだよー。完ちゃん一個ちょうだい?」
「ダメ。くれた人に失礼でしょ」
「う・・!さすが完ちゃん・・かっけぇぇ・・」
そう言って宝はトボトボと自分の席に戻っていった。
そんな姿を他のクラスメイト達がケラケラと笑いながら見つめている。
今の一瞬で教室の空気が和んだような気がした。
完路が席に戻った宝をチラリと見ると、宝はニッと口の端を上げて笑っている。
本当に・・宝には敵わない・・
完路は心で呟いた。
俺はこのまま、宝と一緒にいていいのだろうか。
この頃、完路はこんなことをよく考えるようになっていた。
きっと無意識なのだろうが、宝はいつも自分のことを守ろうとしてくれる。
でもそれは、自分を守ろうとしてくれるのと同時に、宝の中の『理想の完ちゃん』を守っているのではないだろうか。
きっといつか、宝に幻滅される日がくる。
宝と初めて出会った頃から、俺は何も成長していない。
だからきっと、そろそろ宝に気づかれてしまうのではないだろうか。
本当は何も持っていない、つまらないやつだと・・
そんなこと、他の誰かに思われるのは痛くも痒くもない。
でも・・宝に思われるのだけは嫌だ・・
完路はそれから、家から通える範囲でなるべく遠くの高校を調べるようになった。
宝の中の『理想の自分』が崩れる前に、自分から離れよう・・
そう思った。
「えっ!?完ちゃんN市の高校受けるの!?」
中学三年生の夏休み、学校で行われる夏期講習に向かう道で宝は大きな声を上げた。
「うん。このあたりの高校にはあまり行きたいところがないから」
「えぇ〜、そっかぁ・・」
明らかに落胆した表情で宝は項垂れる。
「・・高校違っても休みの日とかは遊べるよ?」
完路はポンと宝の肩を叩いて言った。
「・・・」
宝は下を向いたまま少しの間黙っていたが、何かを思いついたように顔を上げると完路をジッと見つめて言った。
「完ちゃん、完ちゃんが遠くの高校行くのって・・」
そこまで言って宝の口が止まる。
「・・あ、いや!ごめん、なんでもない!」
そう言って宝はニコッと笑うと前を向いて歩き出した。
きっと宝は、俺が芸能人の息子だと噂されるのが嫌で遠くの高校へ行くことにしたと思ったのだろう。
もちろんそれも一理ある。
なるべく自分のことを誰も知らない環境に身を置きたい。
でも・・本当の理由は・・
それだけは宝に知られたくない。
しかし、そんな完路の気持ちなど何も知らない宝は結局同じ高校を受験すると言ってきた。
それがわかったのは高校の願書を出すギリギリのタイミングだった。
「完ちゃんと同じ高校受かるためにめちゃくちゃ勉強してたんだよ!」
宝はそう言って自信満々といった様子で模擬テストの結果を完路に見せてきた。
「完ちゃんと同じ高校行くって言っておいて、全然合格ライン届いてなかったら恥ずかしいじゃん!だからA判定出るまで黙ってたんだよね!」
「・・・」
「よかったよ〜!ギリギリ間に合って!あとは本番失敗しないようにしなくちゃな!」
「宝は・・」
テスト結果の紙を宝に返しながら完路はゆっくり口を開いた。
「宝はなんでここの高校受けるの?」
「えっ?」
「なんで?だってとても遠いよ。朝だってかなり早起きしなくちゃだし。宝今だって寝坊する時あるのに・・」
「えっと、それは・・」
「・・もしかして、俺がいくからとか、そんな単純な動機じゃないよね?」
「えっ・・」
「俺、それだったら嫌だよ。そんな・・いつまでもずっとべったり一緒なのも変だし、もし高校入ってからやっぱり別の高校のほうが良かったのにって思った時に、俺のせいにされても嫌だし」
「・・・」
わざと突き放すようなことを完路は言った。
しかし後ろめたくなり、宝から目を逸らす。
本当は・・嬉しい。
いつだって、そうやって追ってきてくれる。
でも・・いつまでも追ってきてくれたら、今度はこっちが離れられない。
宝はくりっとした瞳で完路を見つめていたが、「あっ」と小さな声をあげて何かを思い出したかのように話し始めた。
「違うんだよ完ちゃん!俺さ!高校デビューしようと思って!」
「・・え?」
想像していなかった言葉を言われ完路はキョトンとする。
「そう!高校生になったらさ!自分を変えたいと思ってて!俺も完ちゃんみたいなクールなやつに生まれ変わるんだ!そのためには今の俺のことを知ってるやつらがいる高校に行ったら意味ないだろ!だから遠くの高校に行きたいんだ!」
「・・・」
「あっ、それに・・そのためにはクールのお手本の完ちゃんが側にいてくれた方が心強いし・・」
宝はしどろもどろになりながら、上目遣いでチラリと完路を見つめる。
「・・本当に?」
完路はそんな宝をまっすぐ見つめながら聞いた。
「本当に、それが理由なの?」
「そう!それが理由!だから完ちゃんと同じ高校に行きたいんだ!!!」
宝はフンと力強く拳を握りしめて言った。
ここまで言われては・・もう突き放すことはできない。
宝は高校デビューのためだと言っているけど、完路はわかっていた。
宝は、自分を一人にさせないために同じ高校を受けようとしてくれている。
昔、宝に言われたことがあった。
「泣きたい時があったら俺のところにこいよ」と・・
結局今まで一度も完路は宝の前で泣いたことはないけれど、宝はきっと今でもあの約束を守ろうとしてくれている。
完路の様子がおかしかったり元気がない時は、宝は心配そうな顔で覗き込んではそばにいてくれた。
『いつだって泣いていいからね?』
そう言ってくれているようだった。
宝。
本当に俺は、そんなに泣きたい時はないんだよ。
だって、いつも宝が側にいてくれたから。
君がいてくれればどんな悲しい気持ちだって吹き飛ぶんだ。
だから・・・
そばにいてほしかった。
ずっと俺の隣にいてほしかったんだ・・
ーーー
ポタリと頬に雫が落ちるのを感じて、宝はふと上を見上げた。
完路から与えられる快感に頭がボゥとしている。
(完ちゃん、暑いのかな・・)
肌と肌がぶつかり合っている二人の体はしっとりと熱を持ち汗ばんでいる。
宝はソッと手を上げて完路の前髪をなぞり、おでこの汗を拭こうとした。
しかし、たしかに額は汗ばんではいるが滴り落ちるほどの量ではない。
(じゃぁ何が・・)
そう思って宝が正面を見つめると、完路の綺麗な瞳が濡れていることにきがついた。
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