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第14話
「完路君?」
凛と澄んだ声に呼ばれて完路は後ろを振り向いた。
艶のある黒のストレートヘアの女性が、きっちりとしたスーツを着て立っている。
「初めまして、と言っても何度か電話でお話はさせてもらったけど」
コツコツとヒールを鳴らしながら、彼女は手を差し出してきた。
「・・初めまして、瀬野完路です」
完路は差し出された手を握り返す。
「門間広恵です。貴重な夏休み中にお時間取らせてごめんなさいね。早速ですけど、あそこのカフェでお話しさせてもらえるかしら?」
そう言って広恵は正面にあるオシャレな店を指さした。
「・・わかりました」
どんな話が待っているのかはわかっている。
それを承知でここに来たのだ。
もう逃げることはしない。
「槙野からの話は電話でも伝えた通りです。完路君から了承を得られればぜひ共演したいと」
広恵は出されたブラックコーヒーには口をつけず、完路の瞳をしっかりと見つめて言った。
完路の手元には先ほど渡された広恵の名刺が置かれている。
大手芸能事務所の社名とマネージャーという肩書きの後に、門間広恵という名前が書いてあった。
「あの・・俺が、父に会ったのは本当に久しぶりで・・それも、東京に戻ってきたから久々に会ってみようと思っただけで。深い意味はないんです・・」
完路はテーブルに置かれたアイスティのグラスを掴みながら口を開いた。
「えぇ、それは槙野から聞いてます。槙野、とても喜んでいたんですよ。息子から会いたいって連絡がきたって」
広恵はまだ湯気のたつコーヒーを啜りながら微笑みを見せる。
「久しぶりに会ったらとてもいい男になっていたって、自慢げに言っていたわ。あの人、イメージを守るあまりプライベートはすごくわびしくてね。普段ほとんど笑わないのよ」
「・・・」
完路は数ヶ月前に会った父の顔を思い浮かべた。
ずっとテレビで見ていたので懐かしいだとか老けただとかは思わなかったが、それでもこんな人だっただろうかと言う疑問が頭に浮かんだ。
冷たくて、とても父親とは思えない。
赤の他人の芸能人『槙野遼』。
もうずっとそう思って過ごしてきたのだ。
それなのにあの日、数年ぶりに会った父は完路を見るなりまるで父親のような笑みを浮かべた。
肩をポンと叩かれ「大人になったなぁ」などと、一丁前に親の顔をして見せたのだ。
「それでね、完路君」
広恵の声で完路はフッと今の状況に意識を戻した。
「槙野が今オファーをもらっているCMにね、あなたと出たいと言っているの。この話にはうちの事務所もCMのスポンサー側もとても前向きでね・・」
「・・・そのCMっていうのは・・」
「内容としては親子で車に乗るシーンがあってね。槙野はもちろん父親役。その息子役に本物の息子である完路君をどうかって」
「・・・」
完路はストローでアイスティを一口飲み込む。
何も言わずに逃げるのはやめると決めた。
完路はゴクリと音をさせてから口を開いた。
「返事の前に聞いておきたいんです。なぜ急にそんな話がまったくの素人である俺にきたのか。いくら父親が俳優だからといっても、演技経験のない人間を使う話そんなに積極的に進むとは思えません。本当の意図は何なんですか?」
「・・・」
それまで冷静な視線を向けてきた広恵が、少し驚きの表情を見せる。
しかしすぐに先ほどまでの顔に戻ると小さく息を吐いて完路をじっと見つめた。
「本当の意図を聞くのは完路君は嫌じゃないの?」
「知らないで・・好き勝手に使われる方が嫌です」
「・・・そう、確かにそれもそうよね。あなた、もう子どもじゃないものね」
「・・・」
「テレビに出れるわよなんて言って、喜ぶ年齢じゃないってこと」
広恵はそう言ってクスリと笑う。
それからテーブルの上に置かれた両手を組み直すと、スッっと息を吸って口を開いた。
「槙野遼のイメージ改革。とでも言えばいいのかしら」
「イメージ・・改革?」
「えぇ。槙野の年齢を考えてもこれからは父親役のイメージがつくような家庭的な雰囲気を出していきたいっていうのが、これからのうちの方針なの」
「・・家庭的、ですか」
完路は親の顔をして見せたあの日の父を思い出した。
「今まではプライベートなことは一切表に出さない方針でやってきたの。槙野もそれを望んでいたし。でもね、役の幅を広げるには今のままではダメなのよ」
「・・それで、俺、ですか」
「えぇ。本当にすごい偶然だったのよ。あなたが槙野に連絡をしてきたタイミングは。ちょうど事務所ではどうやって槙野のイメージ改革をしていこうかって話し合いがなされていた時期で。そんな時に槙野が息子から連絡が来たから会ってもいいかって聞いてきてね。その時の顔を見て、『あぁ、この人も本当は人の親なのねって・・』思わせたわけ。だったらこの親の顔を世間に見せればいいんじゃないかって、どんどん話が進んでね」
「・・その話に父も乗り気になったってわけですね・・」
完路はすっかり氷が溶けて薄くなったアイスティを一口飲みながら言った。
広恵はそんな完路の様子を伺いながら話を進める。
「今までプライベートを出さなかった槙野遼が実の息子と共演ってなったら話題になるでしょ。だからスポンサー側もこの話にはすぐにのってくれてね。あとはあなたからの了承が得られれば全てが動き出すところまできてるのよ」
そこまで言うと広恵はニコリと笑ってクイっとコーヒーを飲み干した。それから指でカップについた口紅を拭う仕草をしながら言った。
「どう?この話を聞いて納得してくれたかしら?」
「・・はい。納得は、できました」
「そう、それで完路君の返事はもう決まっているのかな?」
「・・・」
完路は色の薄くなった目の前のグラスを見つめた。
広恵は急かすことはせず完路から何か言うのを無言で待っている。
それから少しして完路はゆっくりと口を開いた。
「・・俺が・・父に会おうと思ったのは、別に会いたかったからではありません」
「え・・?」
「俺は、前に住んでいた場所からとにかく離れたくて・・だから母親に嘘をついたんです。どうしても東京に戻りたい、父に会いたいって・・」
「・・・」
広恵は切長の目を丸くさせて完路を見つめた。
「そうだったの。だから一人で東京で暮らしてるの?」
「・・はい。母に頼みこんで、東京の高校に転校させてもらいました。こっちに来たのは高校二年の春だったので、一人暮らしでも大丈夫だろうって。俺は・・向こうを離れられたらなんでも良かったんです。ただ、母には父に会いたいと言ってしまっていたので、いつ父さんに連絡を取るんだってしきりに聞かれて・・」
「それで、やっとこの間槙野に連絡してきたわけ?」
「はい。もうすぐ受験で忙しくなるし、とりあえず三年生になる前に会うだけ会って母を納得させればいいかと・・」
「・・つまり、完路君はお母様についた嘘を本当にするために仕方なく槙野に会ったってわけね」
「・・はい・・すみません・・」
完路はそう言うと小さく頭を下げた。
「・・・」
広恵はペコリと下げられた完路の頭頂部を見つめる。それからフッと小さく吹き出した。
「ふふ。まぁ、自業自得ってやつかしらね。今まであの人、父親らしいことなんてほとんどしてきていないんだし」
「・・え?」
てっきり責められると思っていた完路は、広恵の明るい声色に驚き顔を上げる。
「まぁ・・色々とね。事務所としても注文はつけたけど、それに納得して今までやってきたのは槙野本人なわけで。槙野があなたと全然連絡を取っていなかったのは私達も知っているわ。槙野自身も父親である自覚はあまり無いのだろうと思っていたし」
「・・・」
「ふふ。今回まんまと息子に利用されちゃったってわけね」
「・・すみません・・・」
完路は横目になりながらもう一度謝った。
「そう言うことなので・・今回のお話しを俺はお受けする気はありません。父へのわだかまりが取れたわけではないし、本当なら父にも、こう言う芸能界の世界にも関わりたくない・・」
そう言われ広恵は小さくため息をついた。
「そう・・もったいない。あなた素敵なのに。槙野より影があって、もっと大人になったら味が出るタイプだと思うわ」
「・・俺は、普通の・・生活がしたいです」
完路は手のひらを握りしめてポツリと言った。
「・・わかりました。では一旦このお話は承諾を得られなかったと言うことで社に報告させて頂きます。ただ、色々細かい事情もあってね、もしかしたらまた連絡はさせて頂くかもしれません」
広恵はそう言いながらテーブルの上に並べていた資料やスマートフォンを鞄に片付け始めた。
完路も店を出る支度をしようと鞄の中の財布に手を伸ばす。
しかし広恵のすらっとした手が目の前に差し出され、その動きは静止させられた。
「ここはもちろんこちらで持ちます。経費で落ちるから気にしないで」
広恵はそう言うとニコリと笑って黒のバインダーに挟まれた伝票を手に取り、窓の外を見る。
「なんだか雲行きが怪しくなってきたわね。そう言えば今日のニュースでゲリラ豪雨に注意って言っていたわ」
「そうなんですか・・」
完路も窓から外の様子を伺う。
たしかに先程まではなかった黒い雲が空に広がってきている。
「急ぎましょうか」
広恵はカバンを手に取るとスッと席から立ち上がり会計のレジまでコツコツと歩き出した。
完路も黒のボディバッグを肩にかけるとその後についていく。
「ねぇ、ところで・・」
「はい?」
レジで領収書を書いてもらっている間、広恵が思い出したことがあったのか口を開いた。
「なんで前住んでいた場所から離れたくなったの?お母様やおばあさまとも仲良くやっているのでしょう?」
「・・え・・」
完路は思わずカバンの肩紐をぎゅっと握りしめた。
「・・それは・・・」
理由。そんなことは口が裂けても言えるはずがない。
言葉の続きを出せず完路がその場でじっと立ち尽くしていると、しまったと思ったのか広恵が慌てて微笑みながら言った。
「あぁ、ごめんなさい。言いたくないこともあるわよね。大丈夫よ、今日話したことは槙野には秘密にしておくわ。槙野には完路君は芸能界の仕事には興味がないってことだけ伝えておくから」
そう言って人差し指を立たさせて秘密のポーズをしてみせる。
「すみません・・ありがとうございます」
深く追及されなかったことに完路は胸をなでおろすと、キツく握っていたカバンの肩紐からソッと手を離した。
二人は急足でカフェ近くの地下鉄の駅まで向かう。
先程よりも黒い雲が広がってきている。
本当に雨が降りそうだなと、完路は空を見て思った。
「それじゃぁ、また。受験も頑張ってね」
「はい、今日はありがとうございました」
完路がそう言うと先に広恵がICカードを改札にかざしてホームへと入って行った。
コツコツと靴音を鳴らしどんどんと奥の方へ歩いていく。
それから少しすると広恵の姿は見えなくなった。
それを確認すると、完路はハァと小さく息を吐いた。
なるべく平静を装ってはいたけど、流石に緊張していたようだ。手には嫌な汗をかいている。
ずっと昔から父を知っている人と話すのは不思議な気分だ。
そして自分が『槙野遼の息子』だと言うことを知っている人と話すのも久しぶりだった。
今の高校ではおそらく誰も自分が『槙野遼の息子』だと言うことを知らないだろう。
東京の方が他人に無関心なのだ。
そんな事を完路はこっちに戻ってきて初めて知った。
広恵もあくまで仕事として『槙野遼の息子』と話していただけで、仕事に必要なこと以外は何も話さないし、求めてこなかった。
昔東京は居心地が悪いと思っていたのは、まだ小さくて狭い世界にいたからだったのかもしれない。
こっちに戻ってきたのは正解だったんだ・・
完路は心の中で自分に言い聞かせるようにポツリと呟いた。
自宅マンションの最寄り駅につくなり完路は嫌な予感がした。
びしょ濡れの人達が完路の横を急足で通り抜けていく。
ゆっくりエスカレーターで地上に上がると、バケツをひっくり返したような雨が降っていた。
本当にゲリラ豪雨か・・
完路はスマホで雨雲の位置を確認する。あと数分で雲は通り過ぎそうなことがわかると、完路は雨が止むまで濡れないギリギリの位置で待つ事にした。
数分後、雲の隙間から日差しが見えてきたのを確認すると完路は家へと急いだ。
もう遅いだろうが干しっぱなしにしてきた洗濯物が気になる。
一人暮らしにはあっという間になれた。
洗濯も料理も嫌いではない。
自分のペースで過ごせるというのは快適なものだ。もちろんそれが出来るのは、仕送りをしてくれる母と定期的に食料などを送ってくれる祖母のおかげであることを完路はしっかりと自覚している。
将来はちゃんとした仕事につきわがままを聞いてくれた恩返しをしなくてはいけない。
そのために今年の受験は絶対に落とさないと心に決めている。
きっともう・・俺はあの土地には戻らないから。
せめてこっちでちゃんとやっていると安心させてあげなくちゃ。
突然の雨で濡れた地面を見ながら完路は手のひらを握りしめた。
駅から十五分ほど歩くと完路の住むマンションが見えてくる。
母が決めてきたそこはオートロックなどのセキュリティはないけれど築二十年ほどでそこそこ綺麗な建物だ。ほとんどの部屋が単身向けの1LDKの間取りになっていて、完路の部屋は三階の角部屋にある。
エレベーターで三階に着くと、完路はいつものようにカバンから鍵を取り出そうとした。
しかしふと、自分の部屋の扉の前に誰かが立っていることに気づいた。
髪の毛からは雫がパタパタと落ちていて、ブルーのTシャツは濡れて元の色より濃い色のシミが広がっている。
「・・・」
完路は後ろ姿のその人物に声をかけるべきか考えた。まだ向こうは完路に気づいていない。
今なら隠れて誰なのか確認することもできる。
完路はその後ろ姿をじっと見つめた。
・・・
雨で濡れているがところどころ黒髪が跳ねている。
その無造作で自然なままの髪型には覚えがあった。
毎日、思い出さないようにしていてもふとした瞬間に頭によぎる、決して忘れることはできない姿。
でも何故、彼がここに・・?
何か言わなければと思ったが口元が震える。
「・・・っ」
声を出そうとしたがヒュと喉の奥が鳴り、声にならない声が漏れた。
その微かな音に扉の前の人物の肩がピクリと揺れる。後方の気配に気づいたのか、雫の滴る頭がゆっくりと振り返った。
「・・完ちゃん?」
完路の記憶している姿から幾分か幼さの消えた宝が、黒目を震えさせながらそこに立っていた。
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