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第13話 こんな気持ち、はじめてだから
プリンスが壁のどこかを触ると、バルコニーの周囲にさっとぶあつい幕が降りた。
布で囲まれただけなのにあたりは急に静かになった。ひょっとしたらこの幕には遮音の魔法がかかっているのだろうか。バルコニー全体がすっぽりと覆われて、外の光も遮られ、明かりも壁についた小さなランプだけになる。
まるで閉ざされた部屋にいるみたいだ。でも外の声が聞こえなくなったから、俺は正直ほっとした。実はあの生徒の声に聞き覚えがあったのだ。名前は思い出せないが、誓ってもいい、あの生徒は俺の潤滑ジェルを買ったことがある。まさかお城で使うってことはないと思うけれど……思いたいけれど。
「そう、ゴーレムだが――」
俺のすぐ横に立って、プリンスが何かいいかけた。ところがそのまま黙ってしまったので、俺は途惑った。心配事でもあるみたいに、プリンスの眉がすこし下がる。
「先輩?」
何か困ったことでもあるのだろうか。顔が急に近くなった気がした。いい匂いがする。爽やかで、でもかすかに甘いような……香水だろうか?
理由もなく胸の奥がどきどきしはじめ、俺は理由もなくまばたきをした。トーナメントの興奮がいまだに残っているのかもしれない。さっきからなんだか体が熱いのだ。それともこれは隣のバルコニーの会話を聞いてしまったため? なんだかひどく、体が疼くような、落ちつかなさがあって……。
「いや……何を話していたのだったか。悪い」
「いいえ、そんな……」
プリンスは俺のすぐ隣に腰をおろし、テーブルをすこしだけ遠くへずらした。長い足が俺の膝にくっつきそうなくらい近くにくる。こんなに間近にいると、格好のよさだけじゃなくて、プリンスのまわりにあるオーラみたいなものに圧倒されそうになる。
「いや、ゴーレムの話ばかりしてしまっていたね。あまりこういう……話ができる機会がないものだから、つい嬉しくなってしまったんだ」
プリンスは気を取り直したようにいった。
「僕も今の時代にゴーレムにこだわるなんて子供っぽいのはわかっている」
「ええ? あんなすごいゴーレムを使役できるのに?」
俺はびっくりして思わず声を大きくした。ところがプリンスは、どこか寂しそうな微笑みをうかべた。
「いや、子供っぽいよ。国を治めるのにゴーレムは不要なものだ」
「でも……」
「ゴーレム魔法を――式典の模擬試合やサーカスのオマケじゃなくて、実戦で使う事はもうない。そもそもゴーレムが魔王に対抗する兵器として生まれた以上、その方がいいに決まってる。もう魔法大学はゴーレム研究科を魔法基礎研究科に併合してしまったし、魔法省は伝説の魔法使いが編纂した『ゴーレム大全』を絶版にして、簡易版だけを残した。知っているかい? 原典は全二十巻あったのに簡易版はたった一巻なんだ。僕としては魔法省のこの決定を――ああ!」
プリンスはいきなり頭をかきむしった
「ど、どうしました?」
「……ごめん。また自分の話になっていた。それより僕はアッシュの話を聞きたいんだ。きみは将来、何になりたい? 何をしたい?」
「俺の……将来、ですか……?」
プリンスにまっすぐみつめられて、俺は口ごもる。
将来――といっても、今の俺は魔法学園で毎日、毎月を過ごすだけで精いっぱいだ。何になりたいとか何をしたいかなんて、ろくに考えたこともなかった。
いや、ちがう。考えたことがないんじゃなくて、考えるまでもないのだ。俺は学園を卒業したら魔法省のどこかの部署で働くだろう。卒業したら今のように、双子に従者のように使われたりはしないだろうけれど、魔法省に入ればすぐに学費の返済が始まってしまう。それでも何とか生活はできるだろうし、すこしは貯金もできるかもしれない。俺に望めるのはささやかでちっぽけな暮らしだけ。
突然俺のまぶたの裏にプリンスの生活の様子がみえた。学園を卒業したあとのプリンスの毎日は――こんな立派なお城に住んで、召使に世話をされるものだ。王子でいるあいだは王様の横に立って、いずれ責任ある役柄を任せられ……そしていつか、大広間に置かれた玉座につく。
俺には漠然としか想像できないような未来だけど、プリンスにとってはいずれやってくる現実なのだ。あんなに見事にゴーレムを操れるのに、国を治めるには役に立たないなんていえるのも、将来のことをちゃんと考えているからだ。
「先輩」
俺はゆっくり、言葉を選びながらいった。
「ゴーレムは国を治めるのに役に立たないなんてこと、ないです。魔王は伝説の魔法使いに封じられましたけど、消滅したわけじゃありません。いつか蘇ることだってあるかもしれない」
「アッシュは優しいな」
「ちがいます、本当のことです」
プリンスが俺に笑いかけた。さっきのような寂しい微笑みじゃなくて、すごく優しい微笑みだ。胸の内側がまたどきどきしはじめる。顔がやけに熱くなった気がして、俺は自分の膝をみつめた。
「それにくらべて俺は……将来のことなんてきちんと考えたことがないんです。恥ずかしいな。学園を卒業したら魔法省に入る、ということくらいで」
「魔法大学は?」
「行きたいと思ったことはありますけど、たぶん無理ですから」
肩に手が置かれるのを感じて俺はまた顔をあげる。プリンスは真顔だった。
「なぜだ? ご両親が反対しているのか? ゴーレムの戦い方をみればアッシュが優秀なのはすぐにわかる」
「俺、両親はいません。その……俺が魔法学園にいられるのは奇跡みたいなものだから」
「それは――」
「それに、もっとすごい奇跡が今日起きました。先輩、今日はほんとうに特別な日です。こんなふうに話ができるなんて……明日になったら俺はまた……何者でもなくなるんだ」
「アッシュ、そんなことをいうんじゃない」
プリンスの手が俺のあごに触れる。
「せ、先輩……近すぎ……です」
小さな声しか出せなかった。俺の視界がプリンスの顔でいっぱいになって、あっと思った時には唇を覆われる感覚があった。
キス――キスしてるんだ。俺は。
重なった唇はさらっとしていた。ぎゅっと押しつけられたあとすこしゆるんで、俺の上唇をそっと、やさしく噛むようになぞる。くすぐったいのともちがう、ぞくぞくした感覚がやってきて、俺の口は勝手にひらいてしまう。そこに温かくて濡れたものが入ってきて、口の中のいろんな場所にきゅっと吸いついては離れていく。
爽やかでほのかに甘い香りが鼻からぬけて、頭の中までくらくらした。ふわっと力が抜けた背中をつよい手のひらが支えてくれている。
「アッシュ、僕をみて」
いつのまに目を閉じていたんだろう。俺はベンチの上でプリンスに抱きしめられている。
「きみが何者でもないなんて、そんなことありえない」
クゥン、と足元でイヌが鳴いた。俺はハッとしたけれど、プリンスは腕の力をゆるめない。
「あの子、まだ魔力が切れないのか。高性能のラレデンシを充填するにはそれだけの力がないと無理だ。アッシュ、きみの力だよ。きみがすごいんだ」
耳元でささやかれて、今度は首筋にキスをされる。なぜか体じゅうが――足の先や腰のあたりがぞくぞくして、俺はどうしたらいいのかわからなくなる。プリンスの腕は俺を服の上から抱いているだけなのに、肌に直接触れているような気がするのだ。
「あっ……」
背中を直接触られたような気がして、俺は小さく声をあげてしまった。
「ああ……つい――きみに触れてしまった。この方法、三年生になったらアッシュも教わる。こうやるんだ……」
プリンスのため息が消えていと同時に、みえない指が背中から腰におりていく。尻をかするように撫でたと思うと前にまわり、へそから胸の方にあがって――
びくりと電気が走るような快感が俺の背筋をつきぬける。
「せ、先輩……あっんっ」
「これが触魔法だよ、アッシュ。きみにはもうできるだろう。僕の真似をしてごらん……ほら、イメージして……魔力をのばすんだ……」
プリンスが操る見えない手は俺の体のあちこちに触れて、これまでそんなところがあるなんて思いもしなかった、気持ちのいい部分をみつけてくる。背筋から足先まで、体じゅうが甘い火照りに襲われる。
「ほら、やってみて」
「は、はい……」
こんなことをしていいんだろうか、というためらいはいつのまにかなくなっていた。俺はいわれるままに見えない指をイメージした。魔力でそれをかたどって、プリンスの方へのばして……。
「ああ、そうだよ……上手だ。ほら、僕の……膝を触って……」
「こ……こう……?」
「うん、感じるよ。もっと上に……ああ……アッシュ――」
プリンスの両手(魔法じゃない、本物の両手)が俺の腰をぎゅっと抱いた。股間が重なりあったとたん、俺はあわてて離れようともがいた。
「先輩、ごめんなさい、俺……こんなになって」
「大丈夫だから、アッシュ」
みえない指がおりて、勃起した俺自身を一瞬なぞった。
「ああんっ、センパイ!」
「僕も一緒だから。アッシュ……ああ、きみに直接……触れたい」
腰を支えていた手が離れ、俺はベンチに背中を倒していた。プリンスの髪があごに触れ、唇が喉のあたりに触れて、きゅっと吸われる。
「アッシュ、きみはさっき、今日が特別な日だといったけど……」
「は、はぁい、あっ……そう、です……」
「今日は僕にとっても特別な日だ。こんな日になるなんて……」
抱きしめられているあいだに上着のボタンが外れていた。シャツの上からプリンスの手のひらに撫でられて、俺はいろいろなことが信じられないまま、また目を閉じた。
すると胸のあたりでずるっと何かが動いた。プリンスの指が首を撫で、襟元をさぐる。鎖を引き出されたとき、俺は一瞬それが何なのかわからなかった。
「あ、それは……」
「懐中時計だね。おや、この時計は……?」
――時計?
俺はガバッと体を起こした。
「センパイ、いま何時ですか?!」
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