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第18話 とにかく俺に必要なのは当面の教材費だ
アンブローズ先生を取り囲んだ渦がジグザグに割れた。茨の蔓が鋭い棘をきらめかせて渦を切り裂き、鞭のようにしなりながらプリンスのゴーレム、シルフへ飛びかかる。刃のように光る棘を小鳥が避けたとき、虹色の羽毛が宙を舞った。
俺は息をのんだ。しかしシルフは小さな体をひねって茨を避け、翼をパタパタさせて茨の上のポジションを維持する。くちばしが襲いかかる棘をはねのけ、両足の先のピンク色をした小さな爪が蔓を止まり木のように掴んだ。
チュンチュン。
さえずったとたん、虹の羽根の先端から光の粒子が舞い、小鳥の体を覆い隠し、茨の上にふりかかる。光の粒を受けた茨はたちまち茶色に枯れて垂れ下がった。枯れた茨を追いつめるように虹色の翼が羽ばたき、ふたたび風がアンブローズ先生を檻に入れる。風の渦の中で先生の腕があがり、指先に緑色の光がともる。薄い緑の影が風の渦を取り巻きかけ――急に消えた。
俺はハッとした。アンブローズ先生は優れた魔法使いだ。プリンスのゴーレムに対抗できる魔法を知らないはずはない。でもプリンスは学園の生徒なのだ。教師が生徒に魔法を行使するわけにはいかないだろう。
先生の顔が苦しそうに歪むのをみたとたん、俺は思わず手を差し伸べていた。
「先生、アンブローズ先生!」
イヌが俺の意をうけて前に飛び出す。高速で羽ばたきつづける小鳥の真下でジャンプし、牙が小鳥の足をかすった。
「アッシュ?」
「センパイ、先生を苦しめないで!」
プリンスの愕然とした声が耳に入ったが、俺は先生がひたいにうかべている苦痛の皺に耐えられなかった。
「やめないと、イヌをシルフにけしかけます」
「まさか、本当にきみはアンブローズ先生と……」
「とにかくシルフを引いて!」
目に見えないほどの高速で動いていた小鳥の羽根が止まった。アンブローズ先生を囲む渦が消える。俺は先生のそばへ駆け寄った。
「先生、大丈夫ですか!」
「ああ。……すまない、きみに助けられるとは」
先生の手が俺の頭を撫でた。
「アッシュ」
背中に響いたプリンスの声はひどく暗かった。俺はあわててふりむく。
「センパイ、ちがいます、センパイが思ってるようなことじゃない。アンブローズ先生に俺は最初からお世話になっていて……」
プリンスの眸が暗く陰った。
「最初から、か。そうだな。僕はきみに出会ったばかりだ。この学園に入学して三年目になるというのに……」
「でも俺は二年ですから」
「それでもだ!」
プリンスは声を荒げたあと後悔したように俺から顔を背けた。俺とイヌを制するように両手を広げ、アンブローズ先生に一歩近づく。そして腰をかがめ、年長者に対する正式な礼をした。見惚れてしまうほど優雅な動きだった。
「アンブローズ先生、失礼しました。アッシュがあなたを……かばうのなら、今は信じます。今は」
どこかで「プリンス~? どちらですかぁ?」「王子ぃ~殿下~」と呼ぶ声が響いた。イヌが温室のガラスを破ったために外のざわめきが響いてくるのだ。プリンスはきっと顔をあげた。
「僕は行く。アッシュ、イヌをきみに返せてよかった」
すぐさま、プリンスはシルフを肩に止まらせたまま駆け出していく。うしろ姿に俺の胸はきゅっと痛んだ。
「センパイ!」
思わず叫んで、椅子のうしろに落ちていた制服の上着を羽織り、習慣が命じるままにポケットのマスクをかける。ふりむいてアンブローズ先生に頭を下げた。
「ありがとうございました。先生、俺も行きます」
「アッシュ、まだ……」
「大丈夫です、それよりセンパイが……」
最後までいわずに俺は早足で温室の出口に向かっていた。今度はお城の時とちがってイヌがあとをついてくるのがわかった。ラレデンシに十分な魔力があればゴーレムの居所は主人にわかるのだ。温室の外へ出るとき俺は指を鳴らしてイヌを土人形に戻した。手の中に飛びこんだイヌの原型をポケットにおさめ、薬草園を通り抜ける。最初は走れると思ったのに、すぐに息が切れてしまい、薬草園を出る時には歩くだけで精一杯だった。
先生がいったとおり、今日はまだ休んだほうがよかったのだろう。プリンスを追いかけるどころじゃない。それに……俺はふと我に返った。プリンスのあとを追いかけて、俺はどうしようというのだろう?
「燃え殻、いないと思ったらそんなところで何してるんだ」
いきなり声をかけられて俺は飛び上がりそうなくらい驚いた。双子の取り巻きが道を塞ぐように立っていた。ジョン、ロン、トニーの三人だ。
「従者のくせに、ご主人様を置いて何してる」
「プリンスの探しびとのために生徒会役員も俺たちも総がかりだ」
「大変だったんだぞ」
俺は首をふり、相手にせずに通り抜けようとした。
「なんだよ、返事もしないのか」
「燃え殻のくせに」
「あ、そういえば燃え殻の名前、アッシュだっていってたよな」
「まじか」
三人は笑い出したが、俺には理由がわからなかった。でも三人の笑いにこもった悪意に俺の気力は萎えてしまい、プリンスの後を追うという考えはしぼんでしまった。とぼとぼ歩いて寮に戻ると、入口の掲示板に寮費の特別徴収の知らせが貼ってあった。虎の子を盗まれたラレデンシに使ってしまったから、この支払には魔法大会の賞金をあてなればならない。魔法工学実技の工具代と錬金術の材料費も必要だ。足りるだろうか。
頭の中で計算しながら食堂の前にさしかかる。不機嫌な表情のラスが腕を組んでドアのすぐ横に立っていた。珍しくひとりだ。
「燃え殻、いったいどこをうろついていたんだ?」
「薬草園に……」
「生徒会の仕事で僕らは大変だったってのに。プリンスはご機嫌斜めだし。でもおまえには任せられないからな」
生徒会の仕事? そうか、双子は役員なのだ。役員に仕事があったなんて初耳だった。胸の奥がまたきゅっと痛んだ。廊下のむこうからダスがやってきた。両腕に紙袋を抱えている。
「ダス、そんなにおやつ食べるの?」
ラスが呆れた声を出したが、ダスはラスとそっくりな顔に当然といいたげな表情を浮かべた。
「お腹が空くんだって。食堂だけじゃ足りないよ。燃え殻、これからは常にお菓子を出せるように準備して。ナッツ入りチョコと、ドーナツと、クッキーと……」
俺は内心のため息を飲みこみ、ダスから荷物を受け取った。
魔法大会が終わって、学園はいつもの様子に戻った――かと思いきや、三日もおかずに次の行事の準備がはじまった。毎年恒例の学園祭、リリ祭である(なぜかリリーと伸ばさない)。
去年のこの時期、俺はとても忙しかった。準備期間がはじまったとたん、学園祭にかまけておろそかになりがちな課題の代行や、糸魔法のように地道に手を動かさなければならない制作や、学園祭に備えた潤滑ジェルの需要などなど、仕事が大量に舞い込んだからだ。
つまり学園祭準備期間は俺にとって稼ぎ時だった。今年も当然そうなると思っていたし、期待していた。ここで稼げれば期末試験の前に余裕ができる。
ところが、今年は数日経っても俺に誰も、何も頼んでこなかった。
とはいえ俺は暇にはならなかった。クラスの出し物がきまると時間のかかる作業をいくつも振られてしまったし、双子も連日あれこれ用事をいいつけてくる。でも俺がドラを稼げる仕事は何もなかった。
去年とちがうこと――いや、魔法大会の前とちがうことは他にもあった。どうも他の生徒に避けられているような気がして仕方ないのだ。そのくせ廊下ですれちがっただけの、ろくに知らない生徒が、俺をみるなり連れとヒソヒソ話をはじめたりして、どうも落ちつかない。
俺はあいかわらず体にあわない制服を着て、いつもマスクをつけていた。魔法大会の前と同じだ。制服とマスクは心理的防具のようなもので、とくにマスクは心が落ちついた。いったいどうなっているのだろう。ダスのために購買部で菓子を調達しながら俺はいろいろな可能性を考えた。
魔法学園でアルバイトは認められていないし、俺がこれまでやってきた仕事は堂々といえるものじゃない。アンブローズ先生は見逃してくれたが、他の教師にバレたら大変なことになる。課題代行は頼んだ方にもリスクがあるし、みんな用心深くなっているのだろうか?
両手に袋をさげ、不安でうつむきながら廊下を歩いていると、ふいに飛び出してきた手に袖をひっぱられた。
「燃え殻」
「ヘンリー」
「欲しいものがある」
やっと! 待ってました! うなずくとヘンリーはあわてた表情であたりを見回し「トイレ」と一言つぶやいて足早に行ってしまった。これまではこんなことはなかったのに。怪訝に思いながらダスのお菓子を持ったままいちばん近いトイレに入る。中にはヘンリーしかいなかった。
「ジェルと回復薬セットでいくら?」
「ランクによるけど」
「いちばんいいやつ」
「それならあわせて12。でも今は持ってない。寮で渡せるよ」
ヘンリーはうなずいてポケットから紙幣と硬貨を出した。
「先に払っとく」
ヘンリーは毎回、言い値前払いの良客だ。俺は荷物を片手に持ち直し、代金を受け取った。
「受け取りは……燃え殻のとこへ行ったとわかるとまずいから、寮のシャワー室でいいか? 終了前五分に更衣室で」
「あ、うん、いいけど」答えかけて俺は固まった。「まずいって?」
ヘンリーはしまったという表情になった。
「あの、ヘンリー」俺はそっとたずねた。
「ここ何日かみんな……様子が変なんだ。いったい何が起きてる?」
はあぁっというため息。
「ヘンリー?」
「燃え殻さぁ……」ヘンリーはボソボソとささやいた。
「プリンス相手に何かやらかしただろ?」
「え?」
俺はどきりとしてヘンリーの顔を見返した。
「いろんな噂が流れていて、どれもあり得ないと思うけどさ、楯突くとか邪魔するとか、とにかく何かやっただろ?」
「え、そんな……何……?」
何の話なのか、ぜんぜんわからない。ヘンリーはまたため息をついて、それから一気に喋った。
「魔法大会の翌日、プリンスがめちゃくちゃ不機嫌でさ。殿下は魔法大会に出場していた留学生を探しているんだ。でもくだんの貴公子は大会当日の飛び入り参加なのか、それともこの後で編入になるのか、とにかく学園にはみつからなかった。でもおまえ、プリンスがその人を探して温室に入った時、あそこにいたんだろう? プリンスがすごい勢いで温室を飛び出したあとにおまえが出てくるの、見られてたんだよ。プリンスはずっと不機嫌だって話だ。で、燃え殻と仲がいいとか、課題代行やこの手のブツのやりとりをしているなんてプリンスに知られたらまずいって雰囲気になってるんだ。この時期にだぜ? やることたくさんあるのにさぁ」
手が俺の意思を無視してぶるぶる震えた。
「俺はそんな……そんなこと、ないよ。プリンスに楯突くなんて、そんな……」
「燃え殻、ラスとダスは何もいわないのか?」
俺はこくりとうなずいた。ヘンリーは意外だという表情になった。
「とにかく、すっかり噂になってるからさぁ。心あたりがないならほとぼりが冷めるのを待てばいいんじゃん? あ、俺のブツは急ぎだからあとでよろしく」
「ヘンリー!」
俺はまだ話をしたかったが、ヘンリーはもう行ってしまっていた。ダスのお菓子がやけに重く感じ、俺もあわててトイレを出る。食後にお菓子が届かないとダスはとても不機嫌になる。
その日は夕方まで気分が晴れなかった。いったい何がどうしてこんなことになったのか。はっきりしているのは、今年はいちばんの稼ぎ時に稼げそうにないこと、したがって当面の教材費に不足が出るということだ。
いったいどうしたらいいんだろう。俺は授業にちっとも集中できないまま、あれこれ考えこんでいた。最後はアンブローズ先生の授業だったが、その時もうわの空で、指されても質問に答えられず、他の生徒に笑われた。そのせいだろう。授業が終わって教室を出ようとすると、アンブローズ先生が怖い顔で俺を呼んだ。
「アッシュ。すこし残りなさい」
俺の他に生徒がいなくなると先生は教室をみまわし、指を曲げた。教室の戸口がひとりでに閉じた。
「座りなさい」
いちばん近い椅子を指さしたので、俺は大人しく座った。先生もすぐ前の椅子に腰を下ろす。
「体調はどうだ? 大丈夫か? めまいや頭痛はないか?」
「ええ、大丈夫です。体が変に熱くなったりもしないし、問題ありません」
先生の手がふいに俺の前髪をかきわけ、ひたいに触れた。ひんやりして気持ちよかった。
「大丈夫そうだな。それなら今日はどうしたんだ。きみが私の質問に答えられないとは」
「すみません。ちょっと……気が散って、ぼうっとしていたんです」
「なにか心配事でもあるのか?」
「いえ……大丈夫……です」
つい声が小さくなった。先生の手が俺のひたいから離れる。
「私に遠慮などしなくていい。何でもいいなさい。何があった?」
アンブローズ先生はいい先生だ。学園に入れたのも先生のおかげなんだ。そう思うとすこし力が湧いてきた。俺は思いきることにした。
「先生、あの……学園の貸付金を増やしてもらうこと、できませんか?」
「は?」
「教材費が……払えそうになくて。魔法大会の賞金で足りたらよかったんですけど、しばらく収入があまりなさそうで、だから……」
机の上で先生の両手がくっと握りしめられた。
「……そんなことで悩んでいたのか」
「いや、俺にとっては大事なことで」
「ああそうだろう。もちろんそうだ。しかし貸付金枠は……増やせないことはないが……しかし……長期返済計画……ああっ」
「アンブローズ先生?」
ガタン! 先生が立ち上がった勢いがあまりに激しかったので、椅子が倒れた。長い黒髪が衣の上にさらりと垂れた。
「アッシュ、学園の貸付金増額は受け付けられない」
「え、でもそしたら、俺は教材費をどうしたら」
「心配はいらない。きみを私の魔法研究助手 として雇おう。日当は平日5ドラ、支払いは毎週一回、前払いだ。教材費くらいどうにかなるだろう。主に朝、手伝ってもらうことになる。明日から朝食の前に薬草園に来なさい」
週一回、前払い! その文字が俺の頭の中で点滅した。
「どうだ?」
「ハ、ハイ……」
こくりとうなずく。俺の髪に先生の手が優しく触れる。
「では決定だ。それから余計な内職はやめなさい。きみはもっと……自分の能力を磨くことに専念すべきだ。わかったね」
「ハイ、あ、ありがとうございます」
「行きなさい」
悩みがひとつ解決し、俺は心の底からほっとして教室を出た。
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