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第20話 われこそがきみを

 魔法研究助手(MTA)の仕事はアンブローズ先生の授業準備の手伝いだった。初日にやったのは、一年生が使う魔法陣練習用紙をクラス別に分けること(紙に魔法がかかっているので取り扱いには注意が必要)と、温室をまわって指定された薬草見本を集めること(茎を折ってはいけないので、丁寧に抜かなくてはいけない)だった。 「アッシュ、終わったら水盤で手を洗いなさい。授業の前に朝食だ」  驚いたことにアンブローズ先生は朝ごはんまで出してくれた。こんがり焼かれたトーストにたっぷりのバターとマーマレードが添えてあり、半熟卵とピクルス、それにいい香りの紅茶とミルク。 「いいんですか? ありがとうございます!」  お腹がすいていたのもあって俺は大喜びでテーブルに座ったが、トーストに手を伸ばしたとき、先生にここまでしてもらっていいんだろうか? という疑問が浮かんだ。アンブローズ先生はひたいに皺をよせた。 「気にせず食べなさい。きみは育ち盛りだ」  外はひんやりしていても温室の中は暖かい。俺も先生もシャツの袖をまくっていた。いちばん上のボタンを外したアンブローズ先生は、校舎で長い衣を着ているときよりずっと若くみえる。熟練した魔法使いは年齢がよくわからないものだ。先生はいったい何歳なんだろう。  トーストも卵もピクルスも、とてもおいしかった。とても満足したあとで、俺はハッとした――双子のことをすっかり忘れていたのだ。寮に俺がいなかったらどう思うだろう? 「アッシュ? どうした?」  先生が怪訝な表情で問いかけたので、俺は「双子の朝の用意が……」といいかけた。先生は続きをさえぎるように手を振った。 「彼らが文句をいったら私に頼まれた用事があったと答えなさい。そもそもきみはラスにもダスにも仕える必要はないんだ。むしろ双子とは兄弟のようなものだろうに」 「まさか。双子は王国の偉大なる魔法使い様の子息で、俺はただの人です。それに俺は偉大なる魔法使いの温情で魔法学園に入れたんです」  アンブローズ先生は目尻をあげてすこし怖い顔になった。 「……だからといって、その息子たちの従者になる必要はない。あの二人はきみが入学する一年前から学園にいるのだ。アッシュ、もっと視野を広く持ちなさい。きみもこの学園を卒業すれば魔法使いになるのだ。双子は特別できみはただの人だとか、そんな風に思うのは間違いだ。特別なのはきみの方だ」 「でも……」 「私のいうことが信じられないか?」 「……まさか!」 「それでいい。アッシュ、今日の授業では気を散らすんじゃないぞ」 「はい。わかりました」  先生は昨日の話の通り、一週間分の給料を前払いしてくれた。間違っていないか中身をたしかめなさいといわれたので、俺はその場でドラ札を数えた。  毎週お金が入ると思うと嬉しかった。学園を卒業して魔法省へ就職すればこんな風に毎月給料がもらえる。がんばろう。  先生の助手になって二日目、今日の仕事は温室の植物の手入れだった。錬金術の材料になるとても珍しい植物の棘を抜く作業で、説明を聞いた時はとても緊張した。朝の時間はあっというまに過ぎて、終わるとまた先生が朝食を出してくれた。今日はトーストではなく胡桃パンで、ソーセージが挟んである。  朝の温室は東の窓からまっすぐに光がさしこみ、茂った植物の葉をきらきらと輝かせた。温室のアンブローズ先生は教室にいる時より表情がやわらかくて、時々厳しいこともいうけれど、全部俺のためを考えての言葉だとわかる。貴重な植物を扱うとき、先生の指は一見無造作なようで、実はとても繊細な動きをした。魔力酔いを緩和するために先生が俺に触れた時の記憶がぱっと浮かんで、俺の頬は熱くなる。あの時も、先生は俺を助けてくれただけだから……。  朝ごはんが美味しいせいか、授業のあいだもぱっちり目が覚めていた。双子の嫌味や他の生徒が俺をみておかしな様子なのも気にならなかった。三日目の朝も俺は勇んで温室へ行った。今日の先生はどこか浮かない表情だった。今日の仕事は配布物の整理で、特にスキルの必要なものではなかった。  きっとそのせいだろう、先生は途中でいなくなってしまったが、作業を終えてふりむくと朝ごはんは用意されていた。今日はきゅうりとベーコンのサンドイッチと固ゆで卵、桃のジュースだ。この朝ごはん、どこから持ってきたんだろう。先生の宿舎から魔法で運ぶのだろうか。  アンブローズ先生の様子がなんとなく気がかりだったが、俺はいつものように授業に出た。今日は先生の授業がない日だ。アンブローズ先生は全学年で魔法の基礎教科をいろいろ担当している。だからとても忙しいのだ。  それでも、昼間一度も先生の姿をみかけないのが気になって、俺はなんとなく落ちつかない気分だった。だから授業が終わったあと、双子の用事を全速力で片付けて、温室へ行ってみた。  最近は日が暮れるのが早い。温室のガラスごしに柔らかい黄色い光がみえた。中にいるのはアンブローズ先生だろうか。 「先生?」  扉を押しあけて中に入る。熱帯植物のぶあつい葉っぱが垂れさがるなか、水路を流れる水の音、水車が回る音が響く。温室の空気は外と段違いに暖かく、すこし息苦しかった。俺は制服の上着を脱ぎ、マスクをはずした。黒い人影が床に落ちている。きっとアンブローズ先生だ。  ところが木の枝がつくるトンネルから明かりの下に出たとたん、俺は思わずぽかんと口をあけていた。 「アッシュ!」 「せん――センパイ?」  息をつく暇もなかった。俺はプリンスの腕に抱きしめられている。いい香りのするシャツに顔を押しつけられ、背中に回された手に力がこもった。温かい手のひらと、絡んでくる両足を感じて、体がかっと熱くなる。あ、俺、変だ。なんだかすごく……すごく、だめ、そうじゃない、素敵すぎてだめ……。 「アッシュ! やはりここだった。ああ、会いたかった……」  ぎゅうっと何度も抱きしめられたあと、やっと腕の力がゆるみ、プリンスは両手で俺の頬をつつむようにして、上を向かせた。まっすぐな眸にみつめられると心臓はドキドキ脈打ちはじめる。  ああ、前もそうだった。どうしてこうなってしまうんだろう。プリンスがこうやって……近くにいるだけで、俺は溶けそうになってしまう。 「アッシュ、大丈夫なのか」  俺を抱いたままプリンスがささやく。甘い響きの声にうっとりした。 「困っているんじゃないか。どうしてこんな時間にこんなところへ来た。アンブローズに無茶をされているのでは」 「え?」  俺は目をみひらいた。 「たしかに、俺はここに先生を探しに来て……」 「彼なら学園長と面談中だろう」 「そうなんですか? いったいどうして」 「そんなことはどうでもいい。それよりアッシュ、きみを助けたいんだ。アンブローズは何といってきみを脅迫してる。怖がらなくても大丈夫だ。僕がなんとかする」 「え? え? え?」  話の行方がまったくわからないまま、俺はプリンスの両手をそっと掴んだ。 「センパイ、センパイが何の話をしているのかわかりませんが、俺は今は何も……困っていません。アンブローズ先生が雇ってくれたから、教材費も払えそうだし」 「教材費?」 「三日前から先生の助手にしてもらったんです。その、あなたにこんなことをいうのはすごく……恥ずかしいんですけど、俺はあまり……余裕がなくて。寮費とか教材費とか、魔法大会でもらった賞金がなくなりそうだったから、貸付金枠を増やしてもらおうと先生に相談したら、MTAになれといわれて。週払いで前金だし、朝すこし手伝うだけで貴重な植物もみられるし、すごくおいしい朝ごはんも出してもらえて、だから俺はぜんぜん……」 「寮費? 貸付金? 週払い? 朝ごはん?」    プリンスは口をぱくぱくさせてくりかえした。あ、そうか、この人は下々のこんな事情なんて知らないんだ。ぜんぜん関係ないのだから。俺はあわてた。同時にとても恥ずかしくなった。 「センパイ、すみません。わけのわからないこといっちゃって。その、俺はすごく貧乏なんです。両親は魔法使いじゃなかったし、この学園に入れたのも両親を雇っていた王国の偉大なる魔法使いが情けをかけてくれたからで……」  あわてるあまり、話すつもりなんてぜんぜんないことが口から飛び出してしまった。おまけに悲しい気持ちまでこみあげてきて、鼻の奥がつんとする。  両親が亡くなったとき、俺はとても小さかった。だから二人の顔もほとんど覚えていない。偉大なる魔法使いのお屋敷で育ちながら、親が生きていたらいいのに、と思ったことが時々あった。  なぜ急に思い出したのだろう。これじゃプリンスを困らせてしまう。 「魔法大会の時はアンブローズ先生の魔法で綺麗な服を着てましたけど、いつもはこんな……中古の制服だし、だから……センパイが気にかけてもらうような人間じゃないんです。でもアンブローズ先生はこんな俺にいろいろ、便宜をはかってくれて、入学試験も先生の担当だったし、ラレデンシを失くして困っていたときも……」 「ああ、アッシュ――泣くな」  いつのまにかポロポロと涙がこぼれていた。プリンスの手が俺の頬をたどる。泣くつもりなんてなかったのに、こんなの、こんなの……あ――    顔のすぐそばに温かい息を感じた。目の前が暗くなって、口にやわらかいものが押し当てられる。プリンスの唇。俺、また……キスされてる……。 「ん、ん……」  プリンスの腕に背中をささえられているのに、俺の両手は彼の制服を必死でつかんでいた。さっきから溶けそうだった両足がもっと震えて、どうしたらいいのかわからない。ちゅっと優しく上唇を吸われ、撫でるように舌でなぞられる。もう一度、今度は強く下唇を吸われ、歯のあいだにプリンスの舌が入ってきて……。 「んっ、はぁ…、あ……」  唇の端からこぼれた唾液をプリンスは舌ですくいとった。 「アッシュ……きみに涙は似合わない……」 「センパイ、」 「アッシュ、きみを困らせるつもりはない。僕が間違っていたのなら、そういってくれればいい……」  でもセンパイ、今の状態じゃ、何も……何もいえるわけがない。 耳たぶに舌が触れたとたん、甘い痺れに膝がかくっと崩れた。プリンスの唇がまたかぶさってきて、舌が俺の口の中に入り込み、歯のあいだをなぞり、絡みついてくる。鼻の奥までプリンスの匂いでいっぱいで、舌が口の……あちこちをつつくたびに背中がふるえ、腰のあたりがびくびくっと動いてしまう。 「はぁっ、はぁ……」  俺は自分でも意識せずに腰を揺らして、プリンスにぴったり体をくっつけていた。背中に回ったプリンスの腕が下にさがって、お尻を支えるように抱いている。手のひらでゆっくり揉まれると気持ちよくてたまらない。いつのまにか離れてしまった唇を求めて、俺は自分から顔を近づけた。キスがこんなに……気持ちのいいものなんて、ほんとうに、ぜんぜん、知らなかった。 「アッシュ、ああ……きみはなんて……」  プリンスの唇は柔らかく濡れている。今度のキスはついばむようにちゅっ、ちゅっと何度も降ってきて、口だけじゃなくて、顎や頬、目尻に触れる。そのたびに指や足の先まで何かを……あっ……感じて、びくびくしてしまう。 「んっ、センパイ、俺、どうして……」  とぎれとぎれにつぶやいた、その時だった。  どこかでガタッと大きな物音が響いた。

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