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第26話「誰が予想したでしょうか、終末の兆しがあらわれるなど」
さて、アッシュが山の向こうへ飛ばされてしまったあと、魔法学園はどうなったでしょうか。
時間を学園祭一日目の朝まで戻しましょう。
アッシュの不在に最初に気づいたのはリチャード王子でした。
学園祭は三日続きますが、その間はアンブローズの朝の授業がありません。ですから王子はアッシュと二人きりの朝食をもくろんでいました。塔の見晴らしのよいバルコニーにテーブルを用意させ、特別な三日間のスタートにするつもりでした。王子はあれこれ計画していたのです。つまりアッシュへの正式なプロポーズとか、プロポーズとか、プロポーズとかです。
ところが準備万端整えてアッシュの部屋を訪ねたのに、何度ノックをしても返事がありません。
ひょっとして寝坊したのだろうか。真面目なアッシュはアンブローズの授業を一日も休まなかったと王子は知っていました。だからこそ、今日はのんびりしているのかもしれない。
リチャード王子は寝起きのアッシュを想像して胸を高鳴らせました。ドアノブに手をかけると、不用心なことに鍵がかかっていません。
「アッシュ、おはよう――」
開いた窓から風が吹きこみ、カーテンが揺れていました。王子はドキドキしながら寝室をのぞきましたが、特別奨学生の部屋はもぬけの殻でした。
出かけてしまったのか。王子はがっかりし、次に朝食もとらずにどこへ行ったのだろうかと不思議に思いました。
まさか、今日も温室に? さてはアンブローズ先生がこの機会に抜け駆けを――?
自分のことをすっかり棚にあげ、王子の頭にはすばやくそんな考えがよぎりました。さっそく温室へ足を向けましたが、王子の予想に反してここには誰もいませんでした。考えすぎだったか、と王子は自分をなだめました。アッシュはどこへ行ったのだろう。
爽やかな朝の空気のなか、王子はしばらく学園の敷地を歩き回りました。いたるところがリリ祭り用に飾り付けられ、広場には特設ステージが設けられています。ステージの前に誰か立っていると思ったら、なんとアンブローズです。
「おはようございます、アンブローズ先生」
「おはよう。いい天気だ」
空は晴れわたっていました。きっと素晴らしい学園祭になるでしょう。
「特別授業はお休みですか?」
授業がないことを知っていたのに、王子はあえてたずねました。アンブローズの眉がぴくりと動きました。
「学園祭のあいだは点検に回らなくてはならないから、休みにした。かわりに自室で瞑想をするようにとはいったが」
「アッシュは部屋にいませんでした」
王子とアンブローズの視線が一瞬からみ、そらされました。
「散歩にでも行ったのかもしれないな」
「いい天気ですからね」
内容のほとんどない会話をして、ふたりは別れました。オープニングセレモニーで王子は挨拶をすることになっていました。特別奨学生「紫」であるアッシュの席は、王子の席のすぐ近くです。きっとセレモニーの前に会えるでしょう。
ところが学園祭がはじまっても、アッシュはどこにもあらわれませんでした。
アッシュがいなくなったと魔法学園の人々が悟るのにたいした時間はかかりませんでした。なにしろ今回の学園祭では、アッシュは存在そのものがある種の出し物のように思われていたのです。親衛隊やファンクラブ、週刊リリータイムの記者のように、ふだんからアッシュに注目していた生徒だけでなく、日常ではそれほど関心をもたないふりをしていた生徒や教師も、学園祭のあいだに噂の貴公子を拝めることを楽しみにしていました。リリ祭には|女子部《カトレア》の生徒や父兄も訪れます。アッシュと王子とのツーショットを隠し撮りしようと企む者もいました。
それにもかかわらず。
午後になってもアッシュがあらわれなかったので、ついにリチャード王子は学園長に、早朝部屋をたずねた時もアッシュはいなかったと報告しました。しかし制服も靴も衣裳部屋に残されていますし、荷造りなどした形跡もありません。仮にアッシュがどこかへ行こうとしたにせよ、誰にも動機が想像できませんでした。行き先もです。学園は湖が点在する森に囲まれて、いわば陸の孤島です。道は一本しかありませんし、徒歩で行けるような場所はありません。
事故か事件に巻き込まれたのではないか。
学園長は青くなりました。その一方で、どこにいるにせよすぐにみつかるだろう、とも思っていました。新入学の時期などは、森で迷子になる生徒や教師も稀にいるのです。そしてこんな時こそ魔法の出番です。
魔法で物探しをする方法はいくつかあり、呪文や魔道具を使います。探す対象が人間で、ことに移動しているときは、水晶球や水鏡のような鉱物や水をメディウムにした魔道具を使うこともありますし、上級の魔法使いなら風や樹木を直接メディウムにした探索魔法を使うこともあります。
もちろん器用貧乏――ではなくオールマイティーの魔法使いであるアンブローズは探索魔法にも精通していました。リチャード王子の立ちあいのもと、彼がいち早くこれらの魔法を使ったのはいうまでもありません。
ところが――
「だめだ。みつからない」
午後も遅くなったころ、アンブローズは肩を落としてつぶやきました。場所はアッシュの部屋です。探索魔法をうまく働かせるには、探している対象の痕跡が強く残る場所がいいのです。残念ながら、贅沢な部屋はアッシュが使い始めてからあまり日数がたっておらず、深く刻まれた痕跡はほとんどありませんでしたが、アンブローズは魔道具を何種類もためし、小鳥にもたずねました。
しかしアッシュはどこにもいないのです。
「そんな、先生の力でもみつからないなんて……」
愕然とつぶやいたリチャード王子をふりかえって、アンブローズはハッと何かに気づいたようでした。
「リチャード王子、あなたのゴーレムは?」
「シルフなら塔の部屋です」
「アッシュのゴーレムはどこだ?」
ふたりは周囲をみまわしました。どこかに犬の土人形があるはずです。他人のゴーレムを実体化させて主人の行方をたずねるなんて、ふつうの魔法使いにはできませんが、アンブローズは試してみるつもりでした。ところがアッシュのゴーレムも部屋にはみあたらないのです。
「まさかゴーレムもなくなった?」
「リチャード王子、シルフにアッシュのゴーレムを探させなさい」
リチャード王子は素直に従いました。自分の部屋から小鳥の大きさのシルフを連れて戻ると、部屋の中に放ちます。シルフは最初パタパタと部屋を一周しましたが、しまいに窓の方へ向かい、そのまま外へ飛び出してしまいました。
王子と教師はあわてて翼のゴーレムを追いました。そのころになると、たくさんの生徒がアッシュが学園祭にあらわれないのを不審に思っていました。王子と教師が血相を変えて翼のゴーレムを追う姿はそんな生徒たちの注意を引きました。
「先生、シルフは森です。アッシュは森にいるんでしょうか?」
「少なくとも森にはアッシュのゴーレムがいるか、その痕跡があるのだろう。もしかしたらアッシュは森で事故に遭ったのかもしれない。この森は古く、深い。我々がまだ知らない、探索魔法をさえぎるような何かがあるのかも……」
「とにかく僕はシルフを追います!」
「リチャード王子、アッシュが何らかの事故に遭ったのだとしたら、ひとりで行くのは危険だ」
「ひとりで行かなければいいんですね」
王子はうなずき、ふたりを取り囲んでいた生徒たちに呼びかけました。
「みんな、聞いてくれ。実はアッシュが行方不明で、彼のゴーレムの気配だけが森の奥にある。事故に遭ったのかもしれないんだ。僕はこれから森へ行く。誰か一緒に来てくれないか」
たちまち生徒たちは応じました。
「アッシュさんが!」
「そんな!」
「俺が行きます!」
「俺も!」
思ったよりもたくさんの生徒が周囲にいたので、王子は強いリーダーシップを発揮し、その場で探索班を作りました。その間にもアッシュ行方不明の話題は学園じゅうに広まり、こうなるともう学園祭どころではありません。話を聞きつけて生徒会役員も集まりました。王子がシルフを追って森に入ると、生徒たち、そしてアンブローズをはじめとした教師たちが続きました。
「アッシューー!!」
「アッシュさーん!! 返事をしてくださーい!」
遠くでアッシュを呼ぶ声が聞こえます。茶色くなりかけた下草と枯葉で足元をカサコソいわせながら、ラスとダスが歩いています。
「燃え殻がいなくなったくらいで、どうしてあんなに騒ぐんだ」
ダスが不満そうな声でつぶやきました。
「プリンスが心配してるんだ」
とラスが答えました。
「燃え殻を? くだらない。良い血筋の生徒はこんなのに加わるべきじゃない」
「ダス、僕らは生徒会なんだ。プリンスには従わなくちゃ」
「プリンスだって?」
ダスが急に立ち止まったので、ラスも足を止めました。双子のまわりには誰もいません。近頃、双子にはあまり他の生徒が寄ってこなくなっていたのです。以前アッシュが心の中で「竿役」と呼んでいた、快楽の遊び相手も最近は双子を敬遠しています。主としてそれはダスの刺々しい態度と毒舌のためです。
双子はその血筋もさることながら、少女のように愛らしい美貌と、それに比例した愛らしい性格――少なくとも表面上は――で人気があったはずです。ところが最近のダスはどこか毒々しい妖しさを放っているように、双子のラスには思われました。ダスが気に入らない相手を残酷で的を射た言葉でやりこめるたびに、ラスの心にはひやりと冷たい手が触れるようです。
それでも双子は王国の偉大なる魔法使いの息子でしたから、媚びを売ろうとする生徒はまだいました。ところがダスの毒舌はそんな生徒を前にするとますます冴えわたるのでした。
「プリンス、プリンス! ああもう、うんざりだ」
ダスが大声でいいました。ラスはあわてました。
「ダス、何をいってるんだ。王様のただひとりの王子様だよ? 王国をやがて率いる方なんだ」
「はぁ、ちっぽけな王国がなんだっていうのさ。この世界の本当の支配者にかかればあんな王子なんて」
「ダス、いったい何の話をしているの!」ラスは思わず大声をあげました。
「最近のダスはわけがわからないよ。僕はもう我慢できない!」
ラスはダスに背を向けて走り出しました。森の明るい方――学園の方向です。ダスは肩をすくめて、自分と同じ顔をしているのに自分のいうことをきかない分身が去っていくのを眺めました。心の中に黒々とした霧が渦を巻きました。
「みそこなったよ、ラス。僕を置いていくんだな」
ダスはつぶやきました。心の中の黒い霧がますます濃く、激しく渦を巻きました。
「双子なんて、馬鹿馬鹿しい」
ダスはラスを追いかけるかわりに森の奥へ足を向けました。木々の曲がりくねった太い根がみえない道を形づくっています。
下草に踏まれた痕跡がありましたが、ダスは気にせずに先を進みました。前方に奇妙な形の木がみえました。別々に生えたふたつの幹が上方でひとつに融合したありさまは、巨人が股を広げて立っているようです。
巨人の足もとの地面に平たく四角い石がみえました。ダスは吸い寄せられるように近づきました。石の表面に手のひらを押し当てます。カチリ。音と共に把手が浮きあがりました。ダスは息を呑み、把手を引きました。巨大な石の蓋が持ちあがり、地下への入口があらわれます。
石段を下りていくダスの体を黒い霧が包みました。どこまでこの階段は続いているのでしょう。でもダスは怖れを感じませんでした。なぜかこの黒い霧を見通すことができましたし、この地下の空気にはダスを落ちつかせるものがありました。自分が待っていたもの、自分に足りないものはここにある。確信とともにダスは足を進めました。
石段のつきあたりは石の扉でした。表面にうねうねと曲がった二本の角が刻まれています。
おや?
ダスが扉の方へ顔を突き出したとたん、不思議なことが怒りました。角の絵が手前に浮き上がり、ずいっと前に押し出されたと思うと――曲がりくねった角をいただく冠になったのです。
冠はふわりと扉を離れました。そしてダスの金髪に着地して、ぴたりと嵌りました。
少女のようなダスの美貌に至福の笑みが浮かびました。
至福かつ邪悪な、妖しい笑みが。
「おお、ついに我は目覚めた」
ダスの口から重々しい声が響きました。そして自分の体を――足もとや指先をしげしげと眺めました。
「ふむ、若くて美しい。悪くない体だ。さて、長らく閉ざされていたわが宮殿を解放しようぞ」
冠をかぶったダスの手が石の扉に触れます。
ゴロゴロゴロ……ピカッ!
ついさっきまで晴れていたはずの森の上空に真っ黒の雲が生まれたと思うと、みるみるうちに森全体を覆いました。稲妻が続けざまに光り、強い風がびゅうびゅう吹いて、大きな雨粒が降りそそぎます。でもダスは地上につながる石段を振り向きもしません。
ひらかれた扉の向こうにダスは一歩足を踏み入れます。昏く広い空間のただなかで、翼をもつ妖しい生き物がダスの前にひざまずきました。
「我が君。なんと長いあいだこの時を待ったことでしょう」
「待たせたな。今ごろは例の時計が悲鳴をあげていることだろう」
「あんなくだらない仕掛け、すぐに嵐で叩き壊しましょう。地上のすべては明日にも破壊され、我が君は支配者として君臨する……」
「しもべよ、あわてるな」
ダスは両手を組み、妖艶な笑みをうかべました。
「我らには永劫の時間がある。短い期間しか地上におられぬ人間どもとちがってな。悲鳴は長引けば長引くほど心地よい音楽になるものだ……。まずは眷属を目覚めさせ、我が宮殿を拡張しようぞ……地下を我らが領土とし、恐怖に怯える心を存分に楽しんでから、地上を一気に我らのものとする……」
ダスの手がまっすぐ上に伸びました。指先から黒曜石のような艶をおびた、剣のように鋭いものが伸びていきます。地下の空間がそれに伴って広がっていきます。
バリバリバリ! ドーン!
学園を囲む森は突然はじまった大嵐に揺れていました。リチャード王子もアンブローズも、その他の生徒も教師も、あわてて学園に戻っていきます。校舎では地鳴りのような不気味な音が轟くなか、あらゆる魔道具が緊急事態を知らせていました。
魔王復活! 魔王復活!
終わりが来る! 終わりが来る!
キケンキケンキケンキケン!
アンブローズはリチャード王子と共に塔へ駆けあがりました。
「先生、あれは……!」
森の木を押しのけるようにして黒い不気味な砦が生えていました。黒曜石のように尖り、雨にぬらぬらと濡れています。
「魔王のダンジョンだ」
アンブローズは苦い声でつぶやきました。
「伝説の魔法使いが書き残したものだ……」
「先生、アッシュはまさかあれに……」
「わからない。いにしえの記録によれば魔王のダンジョンは魔物の棲み処だ。魔物は魔王の軍隊だ……アッシュ……」
遠く離れたお城の大広間でも、宣告の大時計が狂ったように鳴り響いていました。ダスが――角の冠をかぶったダスが話した通りに。お城の魔法使いは大時計の下の玉座を動かし、魔王の封印が消えているのを確認しました。いったい、いつの間に?
アンブローズは握った拳をふるわせています。王子はそんな教師をみつめ、彼の苦悩をわがことのように感じました。
「先生、戦いましょう。この王国にはラレデンシがあります。僕たちはゴーレムで戦える。力をあわせて魔王を倒すんだ。そしてアッシュを探しましょう」
「ああ。そうだな」
王子と教師は視線をかわし、うなずきました。すぐにでも行動を起こさなければなりません。
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