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第34話 ほとんど無害

 魔王の〈気〉が宿主から逸れた?  光の網は魔王が憑依したダスの体を横倒しに受けとめ、トランポリンのように弾ませていた。ぽん、ぽんと弾むたびに魔王の口から黒い霧があふれ出る。  そうか、あの黒い霧が魔王の一部で、ダスのゴーレムは主人の体からあれを追い出そうとしているのだ。魔法使いたちのゴーレムはダスのゴーレムの援護に動いた。ささやきの魔法がまた声を運んできた。 『思い通りに動けなくなった魔王の〈気〉はいま、魂の核を呼んでいる。核と一体になると魔王は力を取り戻すぞ! 動ける者は核をさがせ! 財宝に惑わされるな』  そうか。宿主を思い通りに動かせない魔王は力を十全に使えないのだ。俺とプリンスは左右に分かれた。キラキラ光る財宝のあいだでイヌの尻尾が揺れる。  魔王の魂の核は誰も欲しがらないもの、ほとんど無害にみえるものに潜んでいる――これは何を意味するのだろう? 周囲に価値を認められず、あまり危険でもないもの。「燃え殻」と呼ばれていた頃の俺のように。  ブワウバウバウバウバウ!  イヌが鳴いて俺を呼んだ。頭が三つあるので吠え声も三倍だ。イヌは金製の食器の山に前足をかけている。俺が走り寄ると、横倒しになった金のコップの影で何かがぴょんと跳ねた。俺は目を細め、用心しながら食器の山へ身を乗り出した。手のひらに乗るくらいの大きさの、しずく型のぷよぷよしたものがぶるんと転がり、またぴょんっと跳ねる。  スライムだ。  こんなところにスライムが?  スライムは山の向こうのダンジョンでは時々みかける生き物だ。古代の遺物の近くで繁殖していることが多い。ぷよぷよした薄い皮の下はどろどろした液体状で、生のままではすぐに腐るし、火であぶられるとあっという間に溶けて蒸発してしまう。生のままで食べても有害ではない。でもすごくまずいから、飢え死にしかけた冒険者も嫌がるくらいだ。  基本的にはおとなしいが、たまに人間へ体当たり攻撃をする個体もいる。でもうっかり倒すと服や靴がねばつくので、たいていは狩りもせずに無視してやりすごすか、追い払う。古代の遺物にスライムが群がっているときは、近くで火を燃やしていなくなるのを待ったりする。 「ここは魔王の本拠地なのに」  俺はそうつぶやき、ハッとした。ほとんど無害。まさか。  スライムが金製の食器のあいだでぽんっと跳ねた。 「つかまえて!」  イヌは金の食器の山に軽々と飛び乗ったが、スライムはスライムらしくない敏捷さでジャンプをくり返して逃れた。ふと上をみると、ダスの口からあふれた魔王の〈気〉がスライムの行く手を待ちかまえるようにとぐろを巻いている。  俺は邪魔な財宝を蹴散らしながら指笛を吹いた。足元に呼び戻したイヌの体がぬうっと大きくなると、その背中に飛び乗り、ふかふかの毛皮を掴む。 「行け!」  イヌはスライムめがけて駆けだし、俺は片手でイヌにつかまり、もう片手で宙に捕獲印を描いた。この隊に加わる前に教わったばかりの魔法だ。蜘蛛の巣のような中心から指先ほどの糸玉が飛び出して、スライムのすぐそばまで迫った。  俺は指を鳴らす。魔力でできた捕獲糸が霞網のように広がって、スライムを包む。やった、つかまえた!  糸の端は俺の指に巻きついている。引っ張る力は想像したよりずっと強く、おまけにスライムはまだジャンプしようとしている。  ふいにうすら寒い気配を感じて俺は上をみあげた。魔王の黒い〈気〉のとぐろがほどけ、鎌首をもたげるようにこっちを見ている。  そのとたん、イヌの毛皮がぎゅうんと伸び、俺を守るように包みこんだ。また少し大きくなった……のか? 俺は捕獲糸をしっかり握る。スライムは霞網に包まれたままやみくもにジャンプを続けようとする。魔王の〈気〉と引きあっているのだ。  指がきりきり締めつけられ、ちぎれそうなくらい痛い。  耳の横で風切音が響いた。視界の隅を虹色の羽根が横切る。シルフ!  イヌが力強く上にジャンプしたとき、俺の体はすこしだけ宙に浮いた。くわっと口をあけたミギーをスライムはよけたが、糸はゆるやかなカーブを描いて緩んだ。すかさずナカーが首をのばす。  ぱく。 「よし、そのまましっかり咥えて――」  俺は命令しようとして迷った。どうすればいい? これは魔王の魂の核なのだ。イヌは魔王の〈気〉から遠く離れようと、すぐに財宝の山の上に降り立つ。〈気〉はダスの口から離れることはできないようだが、黒い鞭のようにこっちへ向かってきた。 「マーティン先生、アンブローズ先生! どうしたら……」 「アッシュ、ヒュドラーだ!」  マーティン先生が怒鳴った。 「ヒュドラーにあてろ!」  イヌはくるりと方向転換し、岸辺に向かって走り出した。時を止められたヒュドラーの胴体は水の上ににょきっと突き出ている。あれにあてるって? 考えている時間はなかった。俺は手の糸を巻き取った。スライムはまだ霞網に包まれているが、ナカーの唾液でべとべとだ。俺は逆の手ですばやく印を描くと、印の中央をくぐるようにして、ヒュドラーへとスライムを投げつけた。 「命中魔法――」  スライムとヒュドラーのあいだに青く輝く線が通った。その線をなぞるようにスライムがビュッと飛んでいく。  成功……か?  最初に目の前で起きたのは真っ黒の爆発だ。その直後、とても気持ちの悪い、体の内側がひっくり返りそうな、吐き気をもよおす音が聴こえてくる。  パウゥオオオオオオオオオンンン……。  俺はイヌの背中にしがみつき、ふかふかの毛皮に頭をおしつけて音に耐えた。いったいどのくらい続いたのだろう。音はだんだん小さくなり、やがて長いため息のようになって、消えた。  やっと顔をあげると、ヒュドラーは影も形もなかった。 「ダス!」  うしろの方で悲鳴のような声があがる。俺はのろのろとふりむいた。宙に浮かんでいたダスのゴーレムがバラバラになって地面に降ってくる。巨人型ゴーレムの一体が両手をさしのべて、ダスの体を受けとめている。 『アッシュ、よくやった』  アンブローズ先生のささやき魔法に俺はビクッとした。 「先生、いったい何が起きたんですか。魔王はどうなったんです?」 『時喰いである魔王の核が時の止まったヒュドラーと激突することで消滅し、衝撃波を受けて魔王の〈気〉も分解された。魔王は死んだのだ』 「死んだ……」  俺はイヌの背に乗ったまま、みんなのところへ戻った。ゴーレムがダスの体をそっと地面に横たえた。マーティン先生がダスのひたいに手をあて、手首をそっと握る。ラスが泣きながらその横にひざまずいている。 「大丈夫だ。息はある。眠っているだけだ」  ラスにそう告げたマーティン先生の声は、これまで聞いた中でいちばん優しかったと思う。 「作戦は成功だ。ひとまず学園に戻るぞ」  アンブローズ先生が重々しくいった。  一瞬の静けさのあと、誰からともなく拍手が起こった。ばんざーい、と声をあげる者もいた。拍手は鳥の羽ばたきのように、魔王のいない地底に響き渡った。

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