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第一章 ヒトツボシ・1

◆◇◆  その日はなんだかムシャクシャしていた。些細ないざこざが原因で、バイトをクビになったのだ。  責任者は、すべての非は俺にあると判断した。なにも珍しい話じゃない。トラブルの原因をすべて押しつけられることは、これまでにもあった。気持ちを言葉にするのが極度に苦手な俺は、相手から繰り出される言い訳に上手く反論できない。  というより、反論しても無駄だ、と思う。  普段他者との交流を必要最低限に抑えているから、そもそも周囲における自分の印象はあまり良くないのだ。こういう事態が度々あるのには辟易するが、やれ親睦だなんだと、日頃乗りたくもない他人の誘いを受けるよりはよほどマシだ。  だから解雇自体は、さほど気に病んではいない。しかし、明日からまた新たな職を探さなければならないのはとてつもなく億劫だった。  慈玄(じげん)は別に生活費など入れなくてもいいと言うが、そうはいかない。タダ飯を食う義理などないのだ。金額は減っても、それだけは守らないと。  三が日を過ぎても、正月気分が抜けきらない連中は街にうようよしている。いやむしろ、その手の奴等は一年中浮かれたように過ごすのだろうか。  電線が寒風にしなる音に、やたら甲高い馬鹿笑いが混じって聞こえ、苛立ちが更に増す。  とにかく、こんな日はとっとと帰って寝てしまいたい。一刻も早く帰り着きたいと思いながら、嬌声でざわついている繁華街を通り抜けようとした、そのとき。 「おい兄ちゃん、今俺の方見て睨んだだろ?なんか言いたいことでもあんのか?」  先程馬鹿笑いを発していた、いかにも柄の悪さを前面に押し出した男に因縁を付けられた。皮膚は赤黒く染まり、目も充血して澱んでいる。明らかに「出来上がっている」状態だ。  溜息が出た。これも、「よくあること」だった。  どういうわけか、こんなふうに絡まれることが多い。多分……いつも不機嫌そうな顔でいるので、目が合うだけで睨み付けてるとでも思われるのだろう。確かにそいつが大笑いしたときにちらりと視線を向けはしたが、無論言うことなどなにも無い。  相手が誰であれ、挨拶を交わす気力すら今は持ち合わせていないのに。 「文句があんならハッキリ言えよ、クソガキ」  酒の力で気が大きくなっているのもあるのだろうが、身長こそ俺と大差ないものの男はおそらく屈強な類だ。着る物に疎い俺でさえ「趣味が悪い」と思う柄のシャツの下は、厚い胸板であることが見て取れる。どちらかといえば細身の俺を格下と見たらしい。  相手がどう思ったかは知らないが、実は腕には少々覚えがある。学生の頃は、日々の鬱憤を意味もなく暴力で解消していた時期があった。それもだんだん虚しく面倒なだけだと思い知り、高校卒業と同時に無益な喧嘩はしなくなったが。  近頃はこういうことがあっても適当にやりすごすのだが、いかんせんこの日はムシャクシャしていたのだ。 「ぅるっせぇよ」  思わず口に出た。  言ってから「拙い」と気付きはしたが、吐く息の酒臭さが感じ取れるほどに近づいた男の耳には届いてしまったようだった。 「んだと、こら」  その後はお決まりのパターンで、がっと胸ぐらを掴まれた。こうなったら仕方ない、と考えるより先、体の方が反応した。すかさず蹴りを入れる。が、次の瞬間左頬を殴られた。  蹌踉けながらも素早く足を払う。不意を突かれた男の体は、鈍い音を立ててアスファルトに転がった。そのまま相手が立ち上がる前にのしかかる。  思考の糸がぷつり、と切れた気がした。組み敷かれ歯噛みしている横っ面に向け、尚も拳を振り上げた時だった。 「はいはい、喧嘩はよくないよ?」 「?!」  突然、後ろから腕を掴まれた。その刹那、下にいた男の足が鳩尾に入る。 「……っつ……っ!」  不覚にも後方へ倒れ込む。 「ふざけんなよ、このガキ!!」  形勢逆転。酔っ払い男が反撃の鉄拳を振り下ろす姿が視界の端に入り、とっさに目を閉じる。  が、しばらくたってもなぜか痛みは襲ってこなかった。恐る恐る目を開けると、さっき腕を掴んだ奴の背中が目の前を塞いでいる。 「っ、ぃたた……」 「ちょ、あんた!」  殴った方も、別の人間が間に立つとは予想もしなかったらしい。若干怯んで、軽く後じさった。声も出せずに息を呑んでいたホステス風の女性が、ようやく悲鳴を上げる。 「そこで何をしてる?!」  誰かが通報したのか、騒ぎを聞きつけたのか、制服姿の警官が姿を現した。相手の男は卑怯にもそれを目端に捉えたとたん逃げ出したようで、すでに姿はなかった。  警官はあたふたと走り寄り、残された俺達の顔を比べ見る。 「大丈夫か?君、そいつに殴られたのか?」 「いえいえ、とんでもない!!これ、俺の弟で。なんか変なのに絡まれてたから間に入って助けようとしたら、とばっちり受けちゃって。もー、だからこんなとこ来ちゃだめって言ったでしょ?さ、帰ろ?」  割って入った男はしゃがみ込み、俺の腕を取って立ち上がると、戸惑う警官を後目にすたすたと歩き出した。  有無を言わせず俺の手首を握る力は、思いの他強い。振りほどくのもままならず、ずるずると連れ往かれる。  やがてネオンの灯は姿を消し、暗い住宅街に入っていた。いきなり家並みが途切れ、ぽっかりと空間が広がる。小さな公園のようだ。  黙ったまま、そして振り向きもしないまま先へ進もうとする男に、しばし呆然と従っていた俺はやっとここに来て言葉を掛けた。 「離せよ!あんた、一体どーゆうつもりだっ!」 「どうもこうも無いよ。あのまま拘留でもされたかった?」  男は初めてこちらに顔を向け、その上にこっと笑みまで浮かべて返答する。 「あーあ、血が出てるよ?可愛い顔が台無し。手当しないとね?」  そういうそいつの口の端にも血が滲んでいた。  ボタンダウンのストライプシャツに、ばさりと羽織ったジャケット。この時期にしては軽装すぎるのではと思う格好だが、やけに様になっている。先程のチンピラっぽい酔っ払いよりは、遙かにセンスは感じられた。  だが、妙ににやけた顔付きと夜目にも鮮やかな金色に染めた髪は、まるでホストみたいな軽さを匂わせる。それゆえ口元の怪我はことのほか痛々しく、なおかつ不釣り合いに見えた。 「可愛い?まぁいい、とにかく離せ!それとも、慰謝料でも請求すんのか?」  住人に聞かれてまた騒ぎになるのも嫌なので、低い声で訴える。これでも脅したつもりだが、手首に絡んだ指は一向に緩まない。 「なに言ってるの?手当てしないと、って言ったでしょ?ここからもうすぐだから、もう少し我慢してね?」 「……は?」  結局俺は、そんな短い会話を交わしたあとも手を引かれたまま、男に引きずられるようにして歩いた。  一体どこへ連れて行くつもりなのか。恐怖を感じさせる相手ではないが、意図が分からなさすぎて狼狽える。  どうにも調子が狂う。

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