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第一章 ヒトツボシ・2
◆◇◆
「あ、兄貴おかえり……って?!どーしたんだよその顔っ!!」
「んー、ちょっとね?それより和、この子手当してやってくんない?」
わけも分からないまま到着した場所は、どうやらそいつの自宅らしかった。
ドアホンを鳴らすと、玄関口に灯りがともる。内から鍵を開け迎え入れたのは、細身の俺より更に華奢げな少年だった。それが、扉を開いたと同時にぎょっとした表情を見せた。帰宅した家族の顔に見慣れぬ痕を見付け、おまけに見知らぬ同伴者までくっついていたのだから驚くのも無理はない。
和、と呼ばれた少年は本当の弟だろうか、女の子のような可愛らしい顔つきをしている。いや、たとえ女でもこんなに目を引く容姿なのはそうはいないだろう。
「くりくり」という形容がぴったり当て嵌まる、小動物にも似た大きな瞳が印象深い。軽く跳ねた髪の赤茶色は、兄貴同様生まれ持ったものではないのだろうが。
最初はびっくりしていたが、弟は兄の言葉に速やかに頷く。
「遠慮しないで上がれよ。すぐ薬箱持ってくるからさ」
「和」はそう言って奥に行ったかと思うと、宣言通り即座に薬箱とともに再び現れた。
「ほら、そこ座って?兄貴も」
居間まで案内し置かれたソファへ俺を導いたあと、手早くガーゼと消毒液を用意する。
「よけいなことを」
つい吐き出された一言。聞こえるように言ったつもりはなかったが、兄弟は困ったように顔を見合わせた。
そうだよ、俺になんか構わなくてもいいのに、なんでこんな……。
「いいから。少しじっとしててな?」
気を取り直したのか、弟の方が俺の傷口にガーゼを当てた。消毒液が、電流みたいな痛みをもたらす。
「つ……っ」
「沁みる?ちょっと我慢しとけよ?」
こいつはどう見ても中学生か高校生だろう。俺のことを同い年くらいに思っているのか、馴れ馴れしい口調だった。多少気に障ったが、童顔なのは自覚している。わざわざ訂正する必要もないと思われた。
「これでよし、っと」
「あ、ありが、とう」
頼みもしないのに、と思いはした。とはいえ今し方、二人を困惑させたのは少しばかり気が引けたので、形だけの礼を口にする。
「どーいたしまして。あ、俺宮城和宏 。こっちは兄貴の光一郎 。お前は?」
「……え……あ、烏丸 、鞍吉 」
「鞍吉か。んー、ちょっと呼びづらいから鞍でいい?」
「は?ぅ、うん……」
兄弟揃ってマイペースというのか、それとも俺がやはり反論下手なだけなのか。ひたすら面食らって、言葉を失くす。そんな俺の様子などお構いなしに、和宏は「うん、鞍な?」
と勝手に再確認して、屈託なく笑った。
「和ー、俺の手当はー?」
「あ。まったく、兄貴まで怪我してちゃ意味ねーじゃん。ちょっと待ってな鞍、これ終わったらお茶でも淹れるから」
「これ、なんてひどいなぁ。ねぇ、鞍君?」
俺のせいでした怪我なのに、光一郎の方もにっこりと笑いかけてきた。あの場で割って入られてから今に至るまで、なんとなく軽薄そうな表情も声のトーンも全然変わらない。
それどころか、思えばこいつはあんなふうに殴られたのに、今の今まで「痛い」と一度も洩らさないのだ。つまらないことに巻き込まれたと、厭味や愚痴の一つくらい言ってもおかしくないのに。
「いや、その……ごめん……」
いつもならこんなくだらない喧嘩はしないのに、それをしたために誰かを巻き添えにしてしまった。その点については、申し訳なかったと心底思った。
しかし当の光一郎は、全く意に介してない様子だった。
「いいよ、俺が勝手に割って入っただけだし」
特に虚勢を張っているわけでも、詫びた俺を気遣ったようでもなく、本心で「どうということはない」と思っているらしい口振りだ。
「でも、怪我までさせて」
「別に鞍君が殴ったわけじゃないでしょ?」
そう言って笑う彼は、ちゃらちゃらしたイメージはあるものの、改めて見直せば弟と同じくかなり整った顔立ちだった。
ここに来る途中、俺に対して「可愛い」とかいう、言われ慣れないどころのレベルではないお世辞をのたまった気がしたが、顔に怪我を負って台無しなのはむしろそっちだろう、と言いたくなる。
口には出さなかったが俺の考えに呼応でもしたのか、
「でもまさか、顔殴られるなんて思わなかったよ」
ぽつりと呟く。
「転職しててよかったなぁ」
転職?
その言葉の意味ははかりかねたが、初対面の相手に突っ込んだ事情まで聞く道理など俺にはなかった。どうせこの場限りの出会い、この家を出たら一切無関係となるのだし。
「ほんとだよ、無鉄砲なことして。時期が時期なら母さん達にめちゃくちゃ怒られてたぞ?」
光一郎の口端にも消毒液をすり込んでいた和宏は、兄の言葉を聞きとがめたようだった。嘆息混じりに返すと、ぐいとガーゼを押しつける。
「いっっだっ!和君ー、もうちょっと優しくー!」
聞くとも無しに兄弟の会話を耳にしながら、ふと気付く。すでに結構な時刻となるのに、その「母さん」が在宅している気配は無い。共働きで、両親とも帰宅が遅いのだろうか。だとしても、俺みたいな得体の知れない他人がいつまでも上がり込んでいていい時間帯ではない。用事が済んだのなら早々に退去すべきだ。
「はい、これでよし。んじゃ、俺お茶淹れてく……」
「俺、もう帰るから」
キッチンへ行こうとする和宏を呼び止めるようにして伝える。手当をしてもらったのに素っ気ないようだが、遅い時間にこれ以上他人の家に厄介になっているわけにはいかない。
「そう?んじゃ送るよ」
「あ、俺も行くー」
「いっ、いいよ。大した怪我じゃねぇし」
この程度の負傷で、わざわざ送ってもらうなどあまりにも情けない。それにいかにも気の合った兄弟のやりとりを目にしていると、さっきまで独り、苛立ち荒んでいた気分だった俺が惨めに思えてくる。そしてこんな俺にまで親しげに接してくる二人に、妙にほだされそうになる自分に嫌気がさしていた。
「そんなこと言わずに送らせてよ。俺が無理にここまで引っ張ってきちゃったんだし。ね?」
光一郎が言う。弟よりもこちらが俺と大差ない歳なのだろうと思うが、見た感じは俺よりずいぶん大人びている。なのにそうやって笑うと、良く言えば無邪気、悪く言えばバカみたいでなんだか力が抜ける。
「……わかったよ」
渋々了承すると、なぜか嬉しそうに兄弟は笑いあった。どうして、見ず知らずの俺にこんなにも構うのか不可解極まりなかった。
「まぁ、いいか」
やはりペースを乱されてしまったのだろうか。そんなの、今はどうでもいいと思えたが。
すれ違い程度の一瞬の縁……のはずが、面倒な状況になってしまった。こいつらにも自分自身にも呆れつつ、宮城家を出た俺は彼等を伴って夜道を歩き出した。
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