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第一章 ヒトツボシ・9

「な、せっかく来たんだし、ちょっと寄ってかねぇ?他のケーキも美味いぜ、ここの」 「いや……」 「いいじゃん。時間あるならさ、お茶くらいなら奢るし。な?」  握ったままの手を離さず、店の中へ連れ込もうとする和宏。実際今日はもう寺へ帰るだけの俺は、抵抗のしようもない。嘘を吐いて逃れる暇もなかった。  ガラス扉の上方についたベルがカラン、と乾いた音色で鳴る。中に入り、まず目に飛び込んできたのはショーケース。そこだけ、春が先回りしたかのような。色とりどりの果物で飾られたケーキの横列は、まるでガラスで仕切られた世界に広がる花畑だ。  ブラウンのグラデーションも一角に陣取っていて、そういえば来月はバレンタインデーという日もあったなと思い出す。  普段ならば気にもかけない色彩に目を奪われている余裕もなく、和宏は俺を奥へと導く。  フローリングの空間に、ゆったりした間隔でテーブルと椅子が並べられているカフェスペースだ。冷気に強ばった身体が、暖房のぬくもりで弛緩する。ガラス張りの外の景色は、くすんだ曇り空だったが。 「外、寒かっただろ?ここ座って、少しあったまれよ!」  そこでやっと手を離した和宏が言った。  強引なところは血の繋がりは無くとも、兄弟そっくりだな……ぼんやりとそんなことを考え、言われるがままに席に着く。  周囲を見回してみる。客は疎らだったが、数人の店員がくるくると働いていた。なぜか、やたら楽しそうに。 「コーヒーでいい?それとも紅茶?」 「あ、コーヒーで」  和宏もまた、軽やかにホールを駆け回っている。  やがて目の前に、コーヒーとケーキが運ばれてきた。 「あ、俺ケーキは」 「コーヒーは俺の奢り。そっちは、先輩が持っていけってさ」  目の前の相手が首を回して、送った視線をつられて追う。その先に見えた厨房スペースのハッチに顔を覗かせていた、光一郎と同い歳くらいのややがっしりとした男性と目が合った。にこりと笑って軽く会釈する。  こいつの級友かなにかだと思われたのだろうか、と思うと変に気まずい。決まりが悪くなってすぐに目を逸らし、ケーキにフォークを入れる。たっぷりと苺が載った、見た目も鮮やかなベリータルトだ。赤い宝石のようにコーティングされた苺が綺麗だった。 「うん、美味い」 「だろ?」  和宏は向かいの椅子に腰掛けると、切り取った一片を口に運ぶ俺を見ていた。そんな様子も、兄弟そっくりだ。 「いいのかよ。仕事中だろ?」 「ここはそーゆうことうるさく言わないんだ。客も少ないし、少し話してきていいってさ」  ずいぶんと緩い職場があったもんだな。ついそんな皮肉が漏れる。 「な、俺もうすぐ上がるし、家で夕飯食ってけよ。兄貴もすげぇ喜ぶ」 「いいよ、別に」 「そう言うなって。慈玄言わなかった?俺、鞍みたいな兄貴欲しいしさ。あの兄貴だけじゃ頼りなくって」  本気なのか冗談なのか、くすくす笑いながら軽率に和宏が言う。 「馬鹿言うなよ。兄貴とか、そんな簡単なもんじゃねぇだろ?」 「そりゃあ、正式な事を考えたら簡単じゃないよ。けど、俺が兄貴だって思えば、鞍だって兄貴同然だよ」  言ってることが無茶苦茶だ、そう窘める。しかし和宏はまったく臆さず 「俺、結構頑固だからさ、決めたら実行しないと気が済まないんだよね」  どういう自信なんだかきっぱりとした口調で告げて、また笑う。やっぱり無茶苦茶だ。 「な、ごっこだっていいじゃん。俺は、鞍のこともっと知りたい。そんで、仲良くなりたいんだ」 「……は?」 「鞍、このケーキ美味いって思ったんだろ?だったらなにも感じないわけじゃない。美味いもの食って美味いって思うだけで、なんか嬉しくねぇ?」  そんなん当たり前だろ?言い返そうと思ったが、どうしても言葉にはできなかった。  そんな当たり前のことが、当たり前にできていない自分に気付いた。一体いつから、自分はそうだったんだろう。  何の反論も出来ず、タルトの苺を弄んでいると、やたらと騒がしい客が入って来た。 「和ー、今日もケーキ食べに来たよー!って、あれ、鞍君?」 「兄貴食い過ぎだから!マジで太っても知らねぇぞ?」 「えー!俺にも苺タルトー!」 「今日はダメ!」  兄弟の会話は店中に響き渡った。はた迷惑な、と感じたのはどうも俺だけらしい。店員も客も、ただ微笑ましそうに眺めているだけだ。 「いつものことだからな?」  俺の気持ちを読んだように、先程の男性店員がいつの間にかテーブル脇に来て言い、コーヒーをサーバーから注ぎ足してくれていた。落ち着いた時間を過ごしたいカフェで常にこんな感じなのは困るだろうに、と苦言を呈したい気分だったが、言うに言えない。 「和宏、今日はもういいから上がれ。飯、作るんだろ?」  店員は和宏に近づくと、頭にぽんと手を置き、微笑んだ。 「はい!ありがとうございます先輩!!」 「釈君ー、俺のケーキは?」 「和宏にダメだって言われたろ?」 「ええっ?!」  彼等のやりとりを眺めつつ、どうにも自分が今まで生きてきた場所とは別世界に迷い込んでしまったような錯覚を覚えた。些細なことで笑っているのは、和宏だけではなかった。光一郎も、この店の店員たちも、ごく自然に笑い合う。  いや、もしかしたら俺が気付かなかっただけで、慈玄も稲城も、施設の連中もだったのかもしれない。 「俺は……俺も、この中に入れるんだろうか」  そんな独り言が唐突に口から溢れ、言った自分がなにより驚いた。 「入れるに決まってるでしょ?鞍君は、感情を持ってないわけじゃないんだから」  そしてその独り言を、光一郎が拾った。  ──可能性なら、広げられるだろ?  慈玄の言葉が頭を掠める。  今はまだ異空間のように感じるこの場所が、俺にとっても「当たり前」となり得るのだろうか?その「可能性」に、身を任せてみてもいいのだろうか?  苺にフォークを刺し、口に転がす。甘酸っぱい果実は、いずれ訪れる春を教えてくれる気がした。  立ち枯れているように見える桜も、幹の中で芽吹く準備をしている。何かが少しずつ、俺自身も気付かぬ程度に動き出していた。  まるで、季節が移り変わっていくように。 ── ヒトツボシ・完

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