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第二章 彗星・1

◆◇◆  桜街を通り過ぎる木枯らしには、まだ春の気配は無い。ぶる、と身体を震えさせ、玄関を入る。 「ただいま」  こうしてこの家に帰るようになって、ひと月ほどが経つ。最初はひどく違和感を感じたが、それも今ではやや薄れつつある。習慣とは恐ろしいものだ。もっとも、慈玄の寺に住み始めた当初も同じような違和感はあった。誰かと生活を共にする、そのこと自体が最初は異様に感じるだけかもしれない。 「おかえり!」  そのひと月で何度もそうしていたように、光一郎が返す。  俺のバイトは午後から夜にかけてが多いので、大抵先に兄弟が帰っている。まれに弟の和宏がバイトの遅番で俺より帰りが遅いこともあるが、日数としては圧倒的に少ない。  だがその日は、リビングに顔を覗かせても、和宏の姿は見えなかった。 「あれ、和は?」 「バイトが終わったら友達のところへ寄ってくるって。遅くなるみたいだよ?」  ふぅん、と気のない返事をし、キッチンにスーパーの袋を置く。 「飯は?」 「まだ。鞍君の帰り待ってたからね」  軽く溜息を吐いて、準備を始める。あまり遅い時間の夕食はいいとは思えないが、なぜか二人とも俺に合わせる。何度も先に食ってくれと言ったのだが、改善する様子はないようだ。 *  あれから後。時折、俺は宮城家で兄弟と夕食を共にした。一度くらいならいいだろうといつかの誘いに乗った形だが、その後も光一郎や和宏は、バイト帰りの俺を捕まえたり、慈玄の携帯に電話やメールを入れては俺に声を掛けてきた。俺は二人に携帯電話の番号もメールアドレスも教えていなかったのだが、慈玄はいつの間にか交換していたらしい。どこか嬉しそうに兄弟が誘っていたと俺に伝える慈玄が、なんだかやけに鬱陶しく思えた。  しつこい招きに根負けし、仕方なく何度かそれに応えていたある日、和宏が唐突に切り出した。 「鞍、バイト先ここの方が近いだろ?こっちに住めばいいじゃん」 「え?」 「だって今、慈玄とこにも生活費入れてるんだろ?だったら条件一緒だよ」  正直、戸惑った。確かに下宿先などどこでも構わない。しかし、いくら「兄弟ごっこ」しているとはいえ、両親不在の家に転がり込むのはどうかと思った。 「俺は嬉しいけどね、賑やかになるし。それに、俺は成人してるから問題ないんじゃない?」  光一郎まで追い打ちをかける。成人しているのなら俺も同じだ。だからといって居候を決め込む理由にはならない。 「……ちょっと、慈玄に聞いてみる」  保護者でもなんでもない慈玄に伺いを立てるとは、我ながらおかしな話だとは思ったが、この場はそれで切り抜けるしかなかった。  いつか、和宏は「自分がこうと決めたらやらないと気が済まない」と言って笑ったが、こうして執拗に食事に誘ってくる様子でもそれは見て取れる。なぜそこまで俺に構うのかは相変わらずまったく理解出来なかったが、俺の言い逃れを露ほども疑わない和宏は「うん、わかった」と、男でも見とれるような愛らしい笑顔を浮かべて頷いた。  慈玄にその旨を伝えると、案に相違して妙に浮かれてこう言った。 「良かったじゃねぇか。で、いつからだ?俺は明日からでも構わねぇぜ?」  少しは寂しがるのかと思いきや、あっさりしたものだ。こんなふうに言われると、やはり俺を追い出したかったのではないかと訝しく思う。ならば、出て行ってやろうではないか。やけくそ半分の想いが過ぎる。見透かしたように、慈玄は続けた。 「もし馴染めねぇと思ったら、いつでも帰って来い。ここもすでにお前の家だ。ちゃんと待っててやっから」  いざ快諾されると引くに引けず、結局兄弟の家へ住み込むこととなった。  たいして多くない稼ぎでは外食ばかりもしていられないので、一人暮らしの頃から俺は自炊をしていた。寺での食事の準備は、慈玄と交代での当番制だった。だから特に得意なわけでも好きなわけでもないが、料理は必要最低限には覚えていた。調理師免許も持ってはいるけど、あくまでバイト面接でよけいな質問を避けるためのもの。資格があれば志望の口実にできるからで、実務経験は乏しく大した技が使えるはずもない。  ところが、和宏は嬉しい、という。  宮城家の家事全般は和宏がほとんど一人で行っていた。しかし本人はまったく苦にしておらず、むしろ楽しんでいた節がある。特に料理は趣味のようで、自己流だ、と照れながらも結構手の込んだものをよく作った。味も、そんじょそこらの店のものよりよほど美味かった。  とはいえ、さすがに居候の俺がまったく何もしないのには引け目を感じる。たまにはやらせてくれと言ったら、どういうわけか和宏はこれ以上はない、というほどに喜んだ。 「鞍、料理できるのか!じゃあさ、今度は一緒に作ろう?誰かと料理するなんてあんまり無かったからすっげー嬉しい!!」  なんだかこちらが面食らうほどに、はしゃいだ声を上げた。曖昧に頷くと、更に嬉しそうに笑った。  いままで自分一人が腹を満たせればいい、と思って作っていた俺の料理を、嫌味に聞こえるほど美味い、と言って二人は食べた。どうしようもなく気恥ずかしいようないたたまれないような、そんな気がした。 ◆◇◆  奇妙な「兄弟ごっこ」の日々が続いていた。  近くで見ていても光一郎と和宏は仲が良い。というより、和宏がとてもしっかりしていて、時々悪態をつきながらも兄を気遣っているのがわかった。光一郎はにこにこしながら相槌を打ち、それを受け止めている。血が繋がっていないなど嘘のようだ。  他にも、気付いたことがいくつもあった。  和宏は出逢った時の印象そのままに、快活で、友人も多い。男女ともに慕われているようで、近所でも評判の「優等生」らしい。光一郎は光一郎で、見た目は疑ったがやはり「教師」だった。時々いつもの態度に似合わぬ真剣な表情で、テストの採点や事務処理を、家に持ち帰ってまでやっていることがある。  そして。こんなに仲の良い兄弟に挟まれても、意外にも俺が疎外感を感じることはなかった。  意識しているのかもしれないが、和宏はことあるごとに一緒に買い物をしようだの共にキッチンに立とうだのとせがみ、光一郎は暇潰しに借りた本について話したり教えてくれたりし、ゲームなども一緒にやろうと俺に声を掛けた。  今に至るまで和宏は俺に、同年代の友達に対するような話し方をし、逆に光一郎は「君」付けで俺を呼んだが、それもだんだん気にならなくなってきていた。  通常の兄弟仲がどれほどのものなのか、家族も兄弟もいなかった俺には想像がつかない。どこもこの二人のようなのかもしれないし、そうではないのかもしれない。けれど、いつの間にかこういった関係がごく当たり前のような気もし出し、流されるままに宮城家での生活を続けていた。

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