66 / 190
第三章 北極星(ポラリス)・35
◆◇◆
当たり前だが、夢などでは無かった。
「おはよう。そろそろ起きろよ?シャワー、使うだろ?」
大きな掌が前髪をかき上げ、さらけ出された額にキスが落ちた。以前と同様、一瞬ここがどこで、声の主が誰なのかを判別できずに。
だが、前と違い唇を触れさせた顔が近くにあったせいで、今どういう状況かが一気に頭を駆け巡った。
「お前の寝顔、ほんと可愛いな。なんか幼く見える」
小さく笑い囁いた相手の面を認めて、がば、と上体を跳ね起こした。起きたとたん、何も身に付けていない自分に気付いて、逆戻りに布団を頭まで被り直す。
「今更恥ずかしがらなくてもいいだろうに」
掛け布団のバリアの外から、まだ笑いを含んだ声が聞こえる。
「……ぇ、いや、その……だって、ほら」
カタツムリのように、そろりと顔半分だけを覗かせる。俺が起き上がった時に退いたひとが、笑顔のままそこにいた。
「とっ、とりあえず、シャワー浴びて、きます……」
布団をマント状にしてくるまり、ずるずる引きずって浴室に向かった。背後からくすくすという笑い声が追う。
洗面台の鏡を見れば、首や肩先に点々と残る赤い痕。それを目にして、昨晩の情事が脳裏に甦った。自分自身にすら見られているのがどうしようもなく恥ずかしく、纏った布団を投げ捨てるようにして駆け込み、扉を閉めた。
「お前、着替えも持たずに入るなよ。適当に置いとくぞ?」
外からかけられた声が、タイルを叩く水音に混じって耳に届く。窘めているようでいて、愉しげな。
「あの、釈七、さん?」
シャワーから出れば、コーヒーの香りが鼻をつく。トーストと目玉焼きに、サラダ。簡単ではあるが完璧な朝食が、テーブルの上に用意されていた。
「なんだ、その呼び方に戻っちまったのか」
「え、あ」
記憶が生々しくて、この時点では彼をどうしても晃と呼べない。その名を口にすれば、あの鋭くも力強い彼の手や身体の感触が思い起こされて、裡が熱で疼いてしまう。
「まぁ、いいか。な、今日は仕事だけど、明日は休みとってどこか出掛けないか?」
「え。でも」
「せっかくの機会なんだ。一日くらいデートさせろよ」
「で……っ、でぇと、って」
男同士には似合わぬ表現だ。光も二人で出掛ける時はそう言ったが、どうにも違和感極まりない。
それでも、彼と遊びに行くという企図はそわりと期待感を胸に湧かせる。微かに逡巡する振りをして、頷いた。
「よし、決まり。どっか行きたいとこあったら考えとけよ?」
「は、はぁ。ってかすみません、朝飯」
食事の準備くらいは、と自分で言い出したのに、一発目からまんまと先を越されてしまった。
「気にすんな。目覚めは良い方だからな、俺。可愛い寝顔も見られたし、な?」
こんなことを言うから、からかわれているのかとも思う。そういえば先日とは違う、完全に無防備な様子を見られたのだと、また顔が熱くなる。マグカップを口に添えて隠した。
「そ、れはいいとして。夕飯はちゃんと作りま……る、から。なんか、釈七さんの好きなものを」
「お、じゃあ楽しみにしとくか。そうだ、バイト終わったら買い物行こうぜ?箸とか茶碗とか、お前のも買ってさ」
終始釈七さんは嬉しそうだった。まだずっとここにいると決まったわけでもないのに……言い返そうとした言葉を呑み込む。
俺の寝顔を幼い、と評した釈七さんだったが、今の彼も職場で見るよりずっと子どもっぽく見える。はしゃいでいるようにさえ感じた。
「あ、悪い。なんか楽しくてな、お前と一緒に過ごしてんのが。柄でもねぇ、か」
照れ臭いのか、頬を軽く掻いた。こんなことでもなければ見られなかったであろう表情を見るのが嬉しく、そのくせ心臓をぎゅっと締め付けられるような苦しさも覚える。
「仕事上がりが待ち遠しくなるな。って、行く前から言う事じゃねぇか。片付けたらそろそろ行こうぜ?」
時計に目を遣れば、出勤時刻が近づいていた。思いのほか長い時間熟睡してしまったらしい。それを詫びて、空いた食器をシンクに運ぶ。
「いいって。大分疲れさせちまったからな」
笑いながら言われた意味を理解するまで、少々時間がかかった。分かった瞬間、皿を洗う自らの手を見つめ振り返れなくなってしまったのだが。
◆◇◆
夕方の買い物は、今日は駅前の商店街ではなく郊外のショッピングセンターまで足を伸ばした。バスにでも乗らなければ来られる立地ではないし、今まで特に用もなかったので、存在は知っていても自分一人では足を踏み入れたことのない場所だ。バイクを走らせれば、こういったところへも難なく辿り着ける。もっとも俺は、後部に跨がっているだけなのだけれど。
仕事からの帰宅途中や夕食の買い出しなど、時間的にもいい頃合いなのか、平日にも関わらず通路を行き交う人の姿は多い。壁をそれぞれ洞窟状に四角く刳り抜いたような形で並ぶ専門店街は、商店街とはまた違った賑わいを見せる。
「あっちに大型スーパーもあるから、ここなら色々いっぺんに揃うだろ」
見慣れぬ光景にきょろきょろする俺に、釈七さんが声を掛けた。
「広いから、迷子になるなよ?」
「なっ、なりませ……なら、ないよ。子どもじゃない、んだから」
手を引こうとする彼から、一歩後退して離れた。こんなに人の多い、その上煌々と明るい空間で、大の男二人が密着して歩くのはさすがに気が引ける。
「んな気にすることねぇのに。どうせ他の客のことなんて目に入ってねぇよ」
苦笑して釈七さんは言うが、そうだとしてもカップルみたいに手を繋いでいれば目に付く人もいるだろう。おかしな話だが、自分が小さな子どもだったらよかったのにと少し思ったりもした。
ともだちにシェアしよう!