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第三章 北極星(ポラリス)・37
◆◇◆
夕食は季節外れの鍋になった。バイトの休憩時間に何が食べたいか釈七さんに訊ねたら、「お前の得意料理が良い」との即答だったからだ。そこそこ自信を持って出せるのは鍋くらいしか無いのだというと、それで構わないと返した。
今の時期に相応しくないのも気になったが、二人の食事としては量も多い。そのことも言い添えたのだが
「いいさ、余ったら次の日雑炊にでもしようぜ?」
と一点張りだ。相手の好物を俺は作りたかったのだけれど。というより、このひとが何が好きかを知りたかったのかもしれない。
自分がプリン好きだというのは、彼にばれた。今日に至ってはガラスが好きだと言うことも。バイクと菓子作りが趣味なのは仕事での言動や先日見た雑誌の数々で分かっていたが、食べ物の好みとなると皆目予測が付かない。菓子はもっぱら、食べるより作る方が好きなようだし。
クリームシチューを幸せそうに口に運んでいた光が、ふと思い起こされてしまう。あんな顔を、このひとにもさせてみたい。そんな欲が、俺の中に沸き起こっていた。
しかし、願いは叶わずに。
本当にこれでいいのかと迷いつつ、準備を始めた。旬の貝類と海老のしんじょをメインにした海鮮鍋にする。
「え、っと、鍋は……」
「あぁ、それならここだ」
上部の棚から釈七さんが取り出す。受け取ると同時に、唇同士が軽く触れた。
「っちょ……っ!」
実は、これで三度目だ。帰宅してすぐに一度、洗面所で手を洗って、キッチンに向かう途中でもう一度。彼のキスは相変わらず唐突で、こちらに隙を与えない。嫌ではないが、いくらなんでも回数が多すぎてどぎまぎする。
「そ、んな、何度もしなく、ても」
「悪い、お前を見てるとついしたくなる。好きだってこと、証明するって言ったしな?」
くすくすと笑いながら言う様子だと面白がっているようにしか思えないが。された自分も、嫌悪感などないのだから尚更困る。
「なんか手伝おうか?」
俺の羞恥などお構いなしに、釈七さんはさらりと続けた。そのペースに呑まれてしまう。
「あ。じゃ、ぁ、海老の背わた取って」
「了解」
やはり、見とれるほど手際が良い。長い指が自在に動くのを目で追う。
和とは一緒に料理したことが以前数回あった。あいつも相当手際はいいが、身体ごとちょこまかと動かすイメージだ。対して釈七さんは、手先だけで器用にこなす感じ。すっと海老の背に包丁を入れる様に色気すら感じて、どきりとした。あっという間にわたを取り除き、「あとは?」と笑顔を向ける。
「い、いや。俺が作る、って言ったから、座ってて、いいよ」
並んで調理するのはいいが、こんな状態では緊張でこちらの手元が疎かになってしまう。
「そうか」
今度はこめかみに唇が触れた。何か言うのもままならないうちに、釈七さんはリビングのソファに移動する。
どうにも照れ臭くて、落ち着かない。
懸念に反して、彼の食べっぷりは実に見事だった。心底美味そうに口に運んでいたので内心ほっとする。多量では、と思っていた鍋の中身を、気付けばほぼ綺麗に平らげていた。
「いや、ほんと美味かった。ありがとな?」
「いえ、お粗末様で」
釈七さんがこんなにガツガツ物を食べるのを見たのは初めてだったので、その言葉も単なるお世辞では無いのだろうと率直に受け止められた。安堵とは別に、仄温かい感情が胸に染み渡る。
「よし、じゃあ俺からもご褒美をやろう」
立ち上がった釈七さんが、やにわにキッチンへ向かう。冷蔵庫の開閉音が聞こえ、すぐ戻って来た。
「わ。これ、どうしたんで……だ?」
テーブルに置かれたものを見た拍子に声を上げてしまった。淡い黄色の、丸い表面。昨晩食べたのはゆっくり味わえなかった、好物の甘味が目前にある。
「お前を驚かせようと思ってな、今朝のうちに作っておいた」
事も無げに言うが、それはつまりあの情事の後……俺を起こす前までに完成させた、という意味だ。
「えっ!じゃ、あその、釈七さん、あまり寝てないん、じゃ」
「まぁな、元々睡眠時間は長くないんだ。そんなことよりお前のために作ったんだ、食えよ」
心配にはなったが、有難く頂戴する。
彼の菓子作りの腕がプロ並みなのは重々分かっていたが、このプリンは格別だった。元来好物、という贔屓目を除いても、前にあちこちで購入したものより遙かに美味い。言ってはなんだが、カフェのものさえ好みとすればこちらの方が凌ぐほど。
「これ、すっっっげー美味い!です!!」
「はは、そいつは良かった」
今度は俺ががっつく番だった。しっかり口で転がし溶かしながらも半分ほどが僅かな時間で胃に収まり、そこで、俺は頭に浮かんだことを口走っていた。
「釈七さんて、なんていうかモテそうすよね、すごく」
他意があったわけではない。ごく素直に、そう思ったのだ。
「は?なんだよ、急に」
また何を言い出したのか、と思ったのだろう。呆れた笑いを含ませて、釈七さんが聞き返す。
「いやだって、昨日好きだ、って発覚したばかりのをわざわざ作っておくとか。買い物の会計だってさっと済ませちまうし、会話のネタとかも仕込んでるし」
食品フロアで食材を物色している間も、俺が退屈することはなかった。調理師免許は一応取得している俺でさえ知らないことを、釈七さんは色々と教えてくれた。
「たまたまネットだかテレビで見ただけだ」とは言うが、それにしても知識が多岐に渡る。直接根掘り葉掘り相手に尋ねるのではないのに、会話の流れで己の趣味嗜好がどんどん明かされていってしまうようだった。
「そうか?俺そんなモテた試しねぇぞ?誰かと付き合ったこともあんまりねぇし」
笑いながらではあるが、声には明らかに意外だという響きが伴っている。謙遜ではなく、事実なのだろうとはそれで分かる。ただ「あんまり」というからには全く無いというのでもなさそうだが。
昨晩の行為を鑑みるに、光同様釈七さんも男を抱くのに戸惑いはなかった。光ほど手慣れた感じでもなかったのだが、それも全然経験が無いということでもなさげだ。
数少ないながらも「付き合った」のが、男女どちらだったのだろうかと引っ掛かる。といって、それ以上はなんだか怖くて訊けなかった。
「それに、誰に対してもここまでするわけじゃない。相手がお前だからだよ、鞍」
笑顔の印象がふっと変わる。軽口を言い合う様相から、優しく慈しむような。
「朝からプリン作ったのだって、自分で自分の行動に驚いたくらいだ。お前が喜んでくれる顔がどうしても見たいと思ってな。美味そうに食ってくれて、作って良かったと思ったよ」
食事の時は、釈七さんはソファに、俺はキッチンを背にして直に床に座っていた。鍋を取り分けるのにそうしていた方が手を伸ばしやすいからだったのだが、デザートのプリンを食している間もそのまま同じ位置に居た。
「ご褒美」の言葉通り。少し高い場所から微笑まれると、手にしたプリンが思いがけず下賜された報償のようにも思えてくる。無論、俺は彼に何をしたわけでもなく、してもらってばかりだったけれど。
そんなことを考えながら、欠けた月みたいになっていた半円の淡黄色に目を落としていると「隣に来ないか?」と誘われた。ひどく畏れ多いように思えて、即座に了承してはいけないような気もしたが、なにも拒むほどのことでもない。食べかけのプリンを持ち、立ち上がってソファまで行くと、彼との間に少し距離を置いて、浅く腰掛ける。
が、肩に回った腕が素早く、俺を引き寄せた。瞬時に強ばってしまう。
「俺は、本気で鞍の事が好きなんだろうな」
ぽつりと漏れ聞こえた告白は、今までのそれとは少し違った。やたらと他人事めいて響く。
「いや、ごめん。しみじみそう思っただけだ」
そしてまた、一時唇が重なった。口端に付いたプリンを舐め取るように舌が残る。
どきりともしたが、同時に理由の解せない苦さがこみ上げた。丁度手にした、甘いカスタードに絡むカラメルみたいに。
「そうだ、これ」
肩を抱いた状態でポケットを探る釈七さんは、もういつもの口調に戻っている。ちりん、と微少な音がして、目の前に何かがぶら下がった。
「お前、こういうのも好きか?」
涼しげな音の正体である鈴と一緒に付いた、角砂糖大のガラスのキューブ。どうなっているのかその中に、羽ばたく鳥の陰影が見える。照明の光を受けて、立体的に煌めいていた。
「茶碗を買った店のレジ横で見付けたんだ。なかなか良い根付だろ?」
「う、うん!きれいだ」
釈七さんは俺の手を取って、根付を握らせた。と、組紐状に編まれた紐の先に、別の物体が結ばれていたと知る。掌を開いて見ると、そこにあったのは鍵だった。
「ここの合い鍵だ。もう一つあるから、これはお前が持ってろ」
「え!いやいや、俺がここに一人で上がることは……」
「使わなくてもいい。お前に持っていて欲しいんだ」
言って釈七さんは、改めて自分の掌で上から俺の手を包み込む。
「これ渡したのも、お前だけだから」
俺だけに。この一言は、とてつもなく魅力的だ。
光が俺だけに見せてくれた景色、釈七さんが俺だけに渡した鍵。
本当に対象が自分のような者でいいのかと、内なる声に何度も戒められながら、ついうっとりと我を忘れてしまうくらいの。
握りしめた金属の先端が皮膚を刺す。その痛みさえ甘く変える。
「……ありがとう……」
「特別」という甘美な毒は、全ての判断力を鈍らせる。身体に回された片腕が両腕となり、抱き締められ耳朶を噛まれても、麻痺した俺は身を任せて蕩けるのを待つのみだった。
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