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第三章 北極星(ポラリス)・38
◆◇◆
三日目。
前の晩も、結局俺達は身体を重ねた。「遠慮しない」との宣言通り、釈七さん……晃は、躊躇無く俺を抱く。「良いか?」と問いはする。しかしそれはあくまでも「俺に対して」であり、光のことを慮って訊くのではない。俺が承諾したあとの彼の所作に触れれば、明確に判る。
最初の印象通り、力強く、鋭い。
肌を強く吸っては、点々と痕を刻む。おそらく、赤味は数日間消えはしない。たとえこの四日間だけでも……その後、情を交わすことなど一切無くなろうとも、俺に自分の感触を植え付けるように。
多分これが、彼なりの「証明」なのだ。
「好きだ」という言葉も、ちょっとした隙に何度も重ねられるキスもだろうが、それ以上に、彼は「覚悟」しているのだと思う。光に知れることになっても……俺に残された赤い斑点を、光に見られても構わないと。
だから俺も、光には隠さず話すつもりでいた。晃に言ったのと同様に。こんなゲームみたいな、ひどい身勝手な試みを。
また苦しめるかもしれない。今度こそ軽蔑されるかもしれない。
だとしても、晃の「覚悟」に今は応えたかった。故に、決して拒まなかった。
下の名を呼ぶのは、まだ慣れない。日常生活の間は、いまだ「釈七さん」と呼ぶ。だが、行為の途中なら別だ。
「鞍、呼び方。呼んでくれないか?お前だけだから」
そう言われ、泣き叫ぶように必死に彼の名を呼んだ。晃は「ありがとう」と礼を返す。
初めて光に抱かれた日。
あいつも、そんなようなことを言っていた。後になってからもこんな話をしていた。
「名前を呼ばれるとね、俺はちゃんとここにいる、ここにいてもいいんだ、って思えるんだ。誰でもない俺を呼んで、今求めてもらえてるんだって」
俺にとって自分の名は、ただの記号でしかなかった。親に捨てられた時は、当然名付けられてなどいない。
「鞍吉」という名をくれたのは稲城だが、どうやら「与えた」のではなく、「元から知っていた」らしい。
いつだったか慈玄も言っていた気がする。「お前は前世から『鞍吉』だった」のだと。教えられたところで、俺自身はそんな記憶は全く無い。
だから、自分の名でありながらどこか他人のもののように思っていた。呼ばれれば自分だと分かるが、それだけのことだ。
晃は……晃も、光と同じだろうか。呼ばれることで、自らの存在を認識できるのだろうか。
とにかく。光も晃もやけに優しく、安堵した表情を見せてくれる。あんな顔をされるなら、いくらでも名を呼ぼうと思った。
「で。どこ行くか決まったか?」
響く腰を擦りつつだが、朝はなんとか起き上がれた。前日とほぼ変わらないメニューを、今度は俺が用意した。せいぜい目玉焼きがスクランブルエッグになった程度で。
「どこ、って?」
「昨日言っただろ?デートだデート」
腰の痛みと夜更かしで、今ひとつ頭が回っていなかった。言われてあっ、と思い出す。
睡眠時間は元々長くない、目覚めは良い、と彼自身口にしていたが、それに違わず晃は朝でも全く惚けた様子は無い。前日も感じたのだが、これで寝起きだなんて信じられないくらいに。髪こそ多少乱れているが、寝るのが遅くてもぼんやりする時間など微塵も無く、喋り方も日中同様にてきぱきとしている。
俺もどちらかといえば寝起きは悪くないはずなのだが、若干寝不足で脳の働きが鈍い。
昔からあちこち出掛ける質でもないから、どこと言われても全く思い浮かばなかった。ぼうっとコーヒーの黒い水面に目を落としていただけなのをさすがに見咎められ、先に提案される。
「そーだな、海とかどうだ?こないだお前、大分喜んでたみたいだし」
「海……」
手が一瞬震えて、コーヒーに波が立った。
光とまた来ようと、今度は「俺達の」思い出をつくろうと約束した、海。太陽を受け、輝く海上は美しかった。とはいえ。
「海……は……」
「嫌か?」
「嫌じゃない、んだ、けど」
別の相手と、潮の香りに包まれるのはやはり気が引けた。
晃の覚悟がここにあるなら、あの場で見たのは光の「覚悟」だ。
「そう、か。んじゃそれはまたいつか、にするか」
「すみません」
「別に謝るとこじゃねぇだろ?んー、だったら水族館は?」
「すいぞく、かん?」
子どもの頃の旅行や遠足から極力逃げていた俺には、水族館も動物園も縁のない場所だった。自分がそういったスポットに身を置いてる図さえ想像できない。
「うん、いって、みたい」
「じゃあ水族館な?食い終わったら準備しろよ?」
昨日の買い物から、晃はずっと楽しそうだった。彼が喜んでくれるので、未知の水族館へ向かう期待に、一層胸が踊った。
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