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第三章 北極星(ポラリス)・39

◆◇◆  海は、都市部の高層ビル上階にも存在していた。  今まで来たことがなかったので、こんな場所にあったとは思わなかった。エレベーターを降りると薄暗い通路が続き、開けたエントランスの脇にチケット売り場と入場口。その奥は更に暗い。  チケットの代わりに渡されたのは、反射材入りの腕輪だ。青白い照明はブラックライト、というらしい。それに当たると浮かび上がるように光る。 「再入場の際はそちらを提示して下さい。本日限りでしたら有効ですので」  受付の女性に説明され、中に進んだ。  最初は、四角く区切られた窓が幾つも並ぶ。中には色鮮やかな小さな魚や蟹、海老、見慣れない奇妙な生き物。何もいないのか、と思う箇所も目を凝らすと、突然敷かれた砂が舞ったり。海藻か何かか、と思えばそれ自体が生物であったり。  海には子供の頃無理矢理連れられていったこともあったし、もちろん先日も目にしたのだが、その下で生活している生き物をこうして間近に見るのはほぼ初めてだった。「食材」としての魚介類ならば仕事や私生活で見てきたが、彼等が「生きている」様子を観察する機会には恵まれなかったし、頭では分かっていても泳ぎ方や動き方は全くといっていいほど知らない。  ひとつひとつの窓をじっくり眺める俺を、隣で晃は飽きもせず付き合った。  尚も暗い順路を往く。次は比較的大きな水槽が幾つか林立するフロアだ。 「……うわ、ぁ……きれー……」  その中の一つ。半透明のゼリーみたいな物体が、発光しながら漂っている。ひらひらとレース状に揺らぐ細い触手は、まるでネオンでも仕込んでいるかのよう。身体を膨らませたり萎ませたりを繰り返し、浮き沈みしていた。こんな無機質な作り物に見えるものにも、確かに命があるのだ。 「クラゲってこーやって泳ぐんだな。初めて見た」 「あぁ、なかなか優雅だな」  逆さにしたワイングラスか何かが軟体になり、呼吸しているようにも見える。昨日の切り子ガラスと同じく、目を奪われていた。 「鞍」  時間の経過もすっかり忘れてしまうくらいだった。次に進もうと促されたのかと思い、呼ばれた方へ顔を向けた。と、次の瞬間唇同士が触れる。 「! ……っちょ、こんなとこ、でっ!」 「暗いから大丈夫だよ。一瞬だから誰も見てない」  慌てて口を拭っても、目の前の相手は平然としたまま。確かに平日で観客は少なく、その上明るさの落とされた空間にはこちらを見遣る視線などおおよそ感じられなかったのだが。 「っく、クラゲが、見てる」  それでも悔しくて、つい馬鹿げた言葉が口を突いた。晃は軽く吹き出してから、水槽に向かって「お前たち、内緒にしといてくれよ?」と呟いた。その言い様が可笑しくて、今度は俺が吹き出していた。  そういえば、と思う。  自分がどんな表情をしているのか分からないのは、なにも晃や光に「そんな顔するな」と言われる時ばかりではない。  今の俺は、笑っているのだろうか。  泣き叫ぶことも以前はなかったが、声を上げて笑った記憶もない。吹き出した声は、自分の耳にも届いた。少なくとも今、楽しいのは事実だ。  俺は、笑えているのだろうか。  もうしばらく先に進むと、いきなり光が射し込んだ。巨大な水槽。行く手には、ドーム状になった通路も見える。暗さに慣れた目を刺すほどではないが、上部から注ぎ込むのは陽光であり、水のプリズムで屈して輝く。魚の群れが横切るたび、銀色の鱗に当たって光った。  六方をガラスで覆われた通路は、もはや完全に水中の眺めだ。頭の上や足の下にも、魚が通る。規則正しく整列した鰯の群れ、その中を突っ切る鮪や鮫。下方ではタコが触腕をくねらせ、蟹が水流に身を任せる。 「寿司ネタの宝庫だ」 「あはは、確かにそうだな」  食べ物として馴染み深い種類も多いので何気なく言ったが、素直に感動も覚えていた。 「俺、泳ぐのあんまり得意じゃなくて。でも海に潜ったら、こんな感じ、なのかな」 「へぇ、意外だな。お前運動神経良さそうなのに」 「そんなでもないっすよ、和や釈七さんの方が良さそうだし。だけど……」  何かを思い出しそうになった。ずいぶんと、遠い昔の何か。 「今度生まれ変わるなら、魚もいいかな、って思う」  空は飛んだことがあるから。どういうわけか、そんな言葉を続けそうになったのを抑えた。 ─お前の前世はな、烏天狗だ。  慈玄にそう告げられても、俺には何のことだかさっぱり見当もつかなかった。前世なんて概念だけでも胡散臭いのに、しかも「天狗」とは。何の冗談か、与太話だろうと思った。  しかし、そこから慈玄が続けた話は、激しい混沌を俺にもたらした。馬鹿げた絵空事のような世界が、恐ろしい臨場感を伴って俺の脳裏にフラッシュバックする。上空からの景色は、間違っても飛行機などの乗り物から見たものではない。生まれてこの方飛行機には乗ったことがないし、おそらくそういった機体の窓から眺めるような、緩やかに移行する光景ではない。当然、屋上などの高所で見るように制止もしていない。目まぐるしく急上昇、急降下を繰り返し、足が地に着いているのに酔ってしまいそうな。  何かに追われ、襲われ、それらに向かって反撃して、打ち落とす。  シューティングゲームで見たのだと思えれば、どんなに良かっただろう。なのに身体にじっとりと纏い付く疲労すら、ゲーム如きのものではなかったのだ。  上がる息、血の匂い、身体のあちこちに走る痛み……そんなものまで甦った。  吐き気を催して、膝が落ちた。胃液の代わりに涙が出た。狼狽えた慈玄が俺を抱き寄せて、そして。 「大丈夫か?顔色が悪いぞ?」  晃が俺の顔を覗き込んでいる。 「……っ、あ、あの、み、水の青が顔に映っただけ、じゃない……かな」  こんな話をしても、誰も信じてはくれまい。相手が光だろうが、晃だろうが。きっと、笑い飛ばされるのがオチだ。 「魚、か。いいかもな。何物にも捕らわれず、自由に大海原を泳ぐ、ってのは」  話題を戻して、晃は同意した。 「でもな、鞍」  耳に、すっと口元が寄る。少し意地悪い調子の声が囁いた。 「誰かに釣り上げられて、食われちまうかもしんねーぞ?」 「?!」  くすくす笑いながら離れる。 「なっ、んなヘマしねぇよ!!」  憮然と彼を追ったが、お陰で頭の片隅に居座りかけた思考が消えた。これこそ、誰に打ち明けても仕方のない話だ。

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