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第三章 北極星(ポラリス)・40
順路の詰まりには、イルカやアシカがショーを見せるステージがあった。人も少ないし、滅多にないことなのでとかぶり付きの席に座ってみる。
見事な弧を描いて、飛躍するイルカ。ありふれた演目のようだが、俺にとってはこれも初見。恥ずかしいのだが、息を呑んで真剣に見てしまった。
「では、最後におおっきなジャンプをしてもらいましょう!」
調教師の声に、水から飛び出したイルカが空中で一回転した。思わず身を乗り出すと、巨体が着水した瞬間の、大量の水飛沫がこちらまで飛んできた。
「結構被ったな、水」
退場口を出ると、土産物を売る店が構えていた。海の生物を模したぬいぐるみや箱入りの菓子に交ざって、水族館のロゴとイルカの絵の入った大小のタオルやTシャツが売られている。よくしたものだ。
「あのイルカ、なかなかの商売上手なのかもな?」
「まさか。近い席じゃなきゃ、着替えるほど濡れねぇっすよ」
大きめのタオルを購入して、近くのトイレで髪を拭いた。服も水気を含んではいたが、Tシャツを買い込むまでではない。風呂かプールから上がった時のように、タオルを頭からすっぽり被ったのは濡れた髪を覆うためだけではなく。
「でも、ほんと楽しかった。こういうとこがこんなに楽しいなんて、知らなかった」
晃と来た水族館を、俺は心底愉しんでいたのだ。子どもみたいにはしゃいで。
今まで一度も、こんな経験は無かった。光と行った海も楽しかったが、あのときは光の過去や和のことも付きまとっていたし。
だが、今回のこれは違う。宮城兄弟のことも、自分の鬱屈も何もかも忘れていられた。頭を掠めかけた、あの日の混乱も。
幼い頃の思い出は苦いばかりだけど、「童心に返る」というのは、多分こういうことなのだろう。
それが単純に嬉しかった。鏡に映った自分の口端が緩んでいるのが見え、照れ臭いような申し訳ないような気持ちになった。だから、タオルで隠していた。
「な、鞍。またどっか行こうぜ?お前がそーゆう顔してくれんの、俺はもっと見たい」
「う、うん」
いいのだろうか、と耳の奥で声がする。まだ晃と、一緒にいると決意したわけではない。こうして二人で出掛ける機会が再びあるかどうかすら。
「鞍、ちょっと」
考え込んでいると、急に腕を引かれた。個室に二人で入り、後ろ手に鍵をかけられる。
「キス、したくなった」
扉を背に押さえ込まれるようにして、俺達はひっそりと唇を重ね合った。
「……ん、ぁ……」
舌が絡む。今し方目にした、海に潜む軟体動物のような。もつれては解け、ねっとり重い水分を滴らせて。
トイレの個室は、当然だが非常に狭い。便器やペーパーホルダーに阻まれ、足の置き場は限られている。必然的に、双方の脚が交互に組み合う形になっていた。腿に挟まれ、股間が擦れる。
「っひ、ぁ……あ……ッ」
「しぃ、誰か来たら聞こえるぞ?」
頭を抱えられ、覆い被さった相手の顔は逆光で判別しづらい。笑い声を含んだ調子はやや加虐的だ。
いつ誰が入ってくるとも分からない公共施設の手洗い、そんなロケーションが興奮を高める。浅ましいと感じながらも、拒否などもうできなかった。
僅かに離れては継ぐ、晃の呼吸も荒い。
「なんだか、俺も我慢できなくなってきた」
あくまで耳の近くで囁く小声。けれどはっきり聞こえた言葉の内容を呑み込む前に、パンツのファスナーが下ろされる。
「!」
「このままじゃ帰りづれぇだろ?お前も、俺も」
空いたところから引きずり出された肉棒を、大きな手が握る。感じたのは、指の感触だけではなかった。晃は自分のファスナーも下げ、抜き出した刀身をぴたりと添わせた。雁首が食い込み重なる。
「……っふ、うぅ……ん……ッッ!」
肩にかけたタオルを噛みしめた。上半身を密着させ、声を殺す。
「は、ぁ……鞍、お前も、な?」
二本の陰茎を包んだ彼の手に、自らの掌も置いた。並んだ亀頭を、粘液が接着剤の如く隙間を埋める。どちらの体温の上昇か分からないほど、いや、乗算されているかと思うくらい、熱い。
「……っんぅ、ぅううう……っっ」
指も絡めて、繋がった手を上下させる。硬直した熱棒がゴリゴリと擦り合わされ、今自分がどこにいるかも考えられなくなる。
互いの肩に噛みつき合うようにして耐え、二人で果てた。白濁が滴り落ちる前に、手早く手繰ったペーパーで晃が拭う。
「は……ごめん、な」
小さな謝罪は、言葉と裏腹に密かな笑みを連れている。怒りたくもなったが、甘んじたのは自分も同じだ。それに、密接した身体は相変わらずの心地良い熱。蕩けてしまいそうな秘め事。
近づいてくるざわめきに気付いて、口を噤む。瞬時同じ姿勢のままで息を潜めた。だが、どうやらトイレの中に入る様子は無く、前の通路を横切っただけのようだ。次第に声と足音は遠ざかっていった。ほっと胸をなで下ろす。
扉を半分開いて、周囲を伺いながらそろりと個室から抜け出た。苦笑を浮かべて、晃が後ろに続く。
「その方がよっぽど怪しいぞ?別に男二人で男子トイレにいるだけなら普通だろ」
「だっ、だけど!」
手に残った粘液を洗い流したが、伝った熱はまだ指の間を流れているみたいだった。体内に放たれるのも恥ずかしいが、直に相手の精液に触れるのはまた別の羞恥心が沸く。それも、自分のものと混ざり合って。
「じゃ、どっかで飯でも食って帰るか」
水族館のあるフロアから地上に降りるエレベーターの中。その提案には首を横に振った。
「食事、俺が用意するって言ったし。それに」
あんな刹那的な行為ではなく、もっと彼が欲しい。ふと思い浮かんだ考えに、もう一度強く首を振る。
「それに、何だよ」
「なっ、なんでもない!ご、ごめん……釈七さんが外の方がいいってんなら、それでも」
「何言ってんだよ。さんざん楽しんだじゃねーか。それに、一緒にいるなら外でも帰っても同じだろ?」
そう、残り時間はあと少し。それまでに俺は、何らかの答えを導き出さなくては。
「なぁ鞍、そろそろ普段も、釈七さんじゃなくて晃、って呼んでくれねぇ?」
「う、うん」
これも、彼が与えてくれた「特別」のひとつだ。ならば、呼びたい。他の誰も呼ばない名で。
「さっきは、声抑えなきゃだったから聞けなかったしな?」
「し……っ、仕事の時とかは!まだ!無理、なんで!!」
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