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第三章 北極星(ポラリス)・41

◆◇◆  マンションに到着すると、エントランスで晃が言う。 「バイク置いてくるから、先入ってろ」 「え、でも」 「昨日鍵、渡しただろ?使えよ」  上着のポケットを探る。鳥の閉じ込められたガラスのキューブが指先に触れた。  少々気が引けたものの、言われた通りに先に階上へ上がる。取りだした鍵を挿して回す。当たり前のように、かちゃりと解錠される音が響く。俺は、この部屋に受け入れられたのだ。阻まれることも、拒まれることもなく。  暗く静かな室内に入ると、微かな電子音が鳴っていたのにやっと気付いた。慌てて携帯を取りだし、反射的に応答ボタンを押す。  もしもし、とのこちらの呼びかけを待つことなく聞こえてきた声に、一瞬心臓が止まる思いがした。 「鞍ー?大丈夫?一人で寂しくない?」  脳天気で馬鹿みたいで、なのに、妙に安堵を覚える声。また表示を確かめずに、電話に出たことを後悔した。たった丸一日聞かなかっただけなのになぜか懐かしい、光の声、だった。 「昨日は電話できなくてごめんねー?色々バタバタしててさー」 「いいよ、仕事だろ?そんくれぇで不安に思ったりしねーし」 「俺は鞍の声聞きたかったよー!明日の夜はまっすぐ帰るからね!!」  どこでかけているのか、今日はバックグラウンドにほとんど音が無い。故に電波を通しても光の言葉は明瞭で、それがやけに、ずきずきと刺さる。 「うん、待ってる」  嘘吐き。留守番の役目など果たしていないくせに。 「約束の手料理、楽しみにしてるよ!……愛してる、鞍」 「…………うん」  ごめん、と口に出しそうになったのを冷静に呑み込む。出先でわずかでも不安に思わせることは言うべきじゃない。 「帰ったらいっぱい抱き締めるから!それじゃあね!」  一方的にまくし立てて、光は電話を切った。変わった様子も無く、無事であることの安心感、宮城家で大人しく待っていると信じて疑っていないことへの安堵、実際はそうでないことの後ろめたさ、申し訳なさ、正直に打ち明けられなかった自分に対する嫌悪感。  様々な感情が、怒濤のように押し寄せた。声が聞けて嬉しいのに、同じくらい、苦しい。  振り向くと、晃が腕を組んで立っていた。玄関へ繋がる通路の壁に寄りかかって。怒っている風でも、悲しんでいる風でもなく、ひたすら、平静と。 「電話、光一郎からか?」 「あ……」  彼の様子を見て、辛かったわけでも哀しかったわけでもない。なのに、目の奥が急に熱くなった。意図せずこみ上げた涙が落ちる。 「いい、何も言うな。さて、飯の準備しようぜ」  がらりと声のトーンをいつものものに変えて、彼はキッチンへ足を向ける。反射的に駆け寄り、その背に縋った。 「?! どっ、どーしたんだよ……」 「キス、してほしい」  自分でもなぜ、そんなことを言ったのかわからない。  ただ、何もかも忘れて外出を楽しんだ今日を、光の声を聞いたとたん反対に全部忘れてしまいそうな気がして怖くなったのだ。どちらも、夢でも幻でもないはずなのに、明滅する信号のように、片方に目を向ければもう片方の思いがシャットアウトされそうで。  前に回した俺の腕を解くと、晃は向き直って黙って唇を重ねてくれた。貪るように、噛みつくように繰り返す。 「お……ねがい、もっと」  息が止まりそうになっても、まだ足りない。思い出が、目の前のひとが揺らぐ。  酸素が薄れ、目眩を感じてやっと離れる。大きく呼吸したら、涙も更に溢れた。 「悪い、鞍。お前を苦しませてるな」 「っ!違う!釈七さんのせいじゃない!!俺、は……っ!」  かぶりを振って否定する。  晃のせいではないのだ。彼は宣言通り、俺を精一杯想ってくれているのだから。 「いいから、無理するな」 「無理なんてしてない!!」  声の調子が、また変わる。穏やかに、あやすように。晃は俺を抱き締め、髪を緩く撫でながら。 「明日は、約束通り宮城家へ帰れ。最初にお前が言ったように、お前は光一郎を忘れなかったし、俺はお前に忘れさせることができなかった。それが結果だ。戻れよ、鞍」  晃の口振りは、どこまでも優しい。優しくて儚くて、そのまま霧散してしまうかと思うほど。 「……え……」 「これではっきりしたんだ、よかったじゃねぇか。それに、なんにも残らないわけじゃない」  りん、と小さく鈴の音が鳴った。ポケットに入った、根付けの鈴。 「ここの鍵は、お前にやったんだ。いつでも来たいときに来ればいい。この二日間、俺はお前を好きだってこと、しっかり伝えたよな?」  俺の上着のポケットを、晃が軽く叩く。また鈴が涼やかな音を立てる。 「これからも、想いに変わりはない。お前は、光一郎の傍にいてやれ」  言って、晃は微笑んだ。 「なん、で。なんで、そんな簡単に言うんだよ……!」  あの夜と同じだ。光に怒れと言ったあの晩。俺が、理不尽な要求をしているだけなのだ。晃の言い分は、至極正当だと頭では理解しているのに。 「なんで、って。賭だ、って言ったのはお前だ。ゲームで良いと。俺が、それにたまたま敗北しただけだろ?」  悔いのない勝負が出来たのだから満足だ、そう言わんばかりの含みを込めて事も無げに晃は言う。  本当に、俺はなんて愚かな提言をしたのだろう。自分の軽率さを恨んで、強く唇を噛んだ。 「それとも、今は無理でも忘れてくれるつもりなのか?俺の気持ちに応えてくれると?」 「……っ」  断言なんて出来ない。晃の気持ちを知ったように、光の気持ちも本気なのだと分かっている。どちらかと一緒にいれば、どちらかの想いに目を瞑らなくてはならない。俺はその間で、ふらふらしている。苦しんでいるのは俺じゃない、俺が、二人を苦しめているのだ。 「とにかく、あと半日ある。『この三日間だけは俺の事だけを想う』、お前、そうも言ったよな?」  もう一度、軽い口付けが落ちた。そうだ、残り少なくても、まだ終わってはいない。 「だったら、今は俺だけ見てろ」  黙って頷く。光を好きだと再確認出来たら宮城家へ帰るのも約束なら、その前提も約束だ。今いる場所を確かめるように、眼前の人をじっと見る。 「ん、じゃあ、今日は俺が夕飯作ってやろう。一緒にやるか?」  俺の頭を一撫でして、何事も無かったように晃はキッチンに入る。その後を追った。

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