74 / 190
第三章 北極星(ポラリス)・43
何の脈絡も無く言われ、思わず顔を上げる。
「へっ?い、一緒、って。ここ、二人で入れるほどの広さ、じゃ……」
「それでも、だよ。狭くて悪いが」
見えなかった淋しさが、垣間見えてしまった。晃の顔に、笑みはもう無い。
「今夜は、お前を片時も離したくないんだ」
「っ、え……」
どくんと鳴った心臓が、一気に動きを速める。離したくない、と言われたのについ繋いだ手さえも離した。
「恥ずかしいのか光一郎に悪いのかしらねぇけど、そうやって避けられると、俺にだって罪悪感が無いわけじゃない」
「ちがっ、そーゆん、じゃ……っっ!!」
真っ直ぐに見るのが怖くて、逸らしていた視線を戻す。そこにあったのは、最初の夜に見た重く暗い影。
「鞍、俺のお前への想いは変わらない。こうして一緒にいられて本当に幸せだと思ったし、楽しかった。これからもできればそうしたいと思う。が、お前が光一郎を想って、宮城家に帰るのならばそれでいい。正直、その方が良いんじゃないかと考える自分もいる。なぜなら俺は……」
続けざまに晃は口を開き、そして噤んだ。何を言いかけたのか、さっぱり想像できない。
沈黙が流れた。先を促してはいけない気がして、俺も何も言えなくなった。
部屋の空気が、ひんやりと冷たくなったように思えた。腰を浮かせ、再度晃の手を取る。
「……風呂、はいろっか」
浴槽に湯を張っても、当然二人では浸かれない。
「シャワーだけでもいいか」とどちらがともなく言い、同意した。
俺は、誰かと風呂に入るのが苦手だ。施設にいる頃から、皆が入浴してから最後にひっそり一人で入った。アパートに風呂はなかったので銭湯は利用していたが、閉店間際の人の少なそうな時間を狙い、短時間で済ませた。
当然寺でも慈玄と入ることはなく、和に誘われても断った。光とは押し切られて何度か共にしたけれど、気を許せば情事に持ち込まれたので、牽制するようになってからはあまり誘われなくなった。
なので、すんなり承諾したのはこれが初めてかもしれない。その上自ら手を引いてはみたが、やはりどうしても恥ずかしい。肌を見られるのも、見るのも。
ならば、と全裸になってすぐぴったりくっついてみた。身長は大して違わないから、これなら晃に見えるのは俺の頭頂だけだ。
しかしこれがかえって拙かったのではと思い知ったのは、すでにシャワーを背に当てられていた時だ。直に伝わる、心音と体温。雫が伝い落ちる度、意識が高まってびくりと震える。
水族館のトイレでの状態みたいに、身体が先に反応してしまわぬよう、相手の肩に顔を埋めて耐えた。とはいえこうすれば尚更、晃の鼓動も熱も近い。
「はは、こんなに貼り付いてたら、全然寂しくはないな」 見えているのがそこだけであろう俺の髪に、晃はキスを落とす。そうだ、見えなくても寂しいことはあるだろうとずっと思っていた俺なのに。
光との電話の後、冷静に「戻れ」と諭した晃、そんな安易に言うなと返した俺。別に彼は、簡単に言ったわけではない。俺の様子で、気持ちを案じただけで。
「誰かが傍に居てほしいなら、なんで今までそうしなかったんだよ」
顔を隠したまま、ぼそりと訊ねる。晃だったら、応えてくれる相手など難なくみつかると思うのに。
「誰か、じゃない。お前だからだよ」
その言葉があまりにも意外に感じて、顔を上げて相手を見た。翳りは薄れ、晃は穏やかな微笑のみを浮かべている。
「今までこれほど、誰かに触れたいとは思わなかった。ずっと一緒にいたいとも、な。深入りすんのは煩わしいと思ってた。離れたくない、なんて考えたのは、お前が初めてなんだよ、鞍」
「……うそだろ?」
口調からして、偽りには聞こえない。けれど言わずにはいられなかった。職場の皆にも気さくに接し、話し掛けられ、相談され、色々面倒を見ている。その晃が、自ら求めることがこれまでなかったなんて、到底信じられない。
「嘘なものか。俺も昔、人と接するのも笑うのも苦手だった。今でこそ他人と関わるのもいいものだ、と思えるようにはなったが、どうしても一歩奥まで踏み込む気にはなれなかった。誰かと付き合うことはあっても、長続きしなかったのはそのせいだ。『なんでもっと触れようとしないのか』ってな、何回も言われた」
この二日間、俺は何度も彼にキスされ、何度も触れられた。頻度としてはむしろ光より多いくらいに。今まで付き合った相手には、そうしなかったと?
問うと、彼は「そうだ」と頷く。
「だから、こう見えてお前にするのも恐る恐るだったんだぞ?照れ臭いだけだろうと思ってはいても、不安はそれなりにあった」
晃に触れられるのに、不快感はない。一瞬たりとも。隙が無いから、相手をよく見ているから、そんな理由だとばかり考えていた。だが、そればかりではなかったのだ。距離を置くから、触れる手になんの「熱」も加えまいとしていたから。
今抱き合っていて、鼓動が速まるのは、身体が熱く感じるのは……彼の「感情」がより深く備わってきたからなのだ、きっと。
「……ごめん、ごめんな……」
首に腕を回して、唇を求めた。徐々に上がっていく熱を、逃さず確かめるように。
「そんなに謝るな。どういう結果になろうが、会えないわけじゃないんだ。バイトだって続けてくれるんだろ?俺がお前を好きなのに変わりないだけだ」
数回のキスの後、晃は困惑した体で笑う。
続けられるだろうか。以前と同じように、店で顔を合わせても平常心でいられるだろうか。
難しい気がする。自分を好きだと言ってくれた、しかもそれを実証するために最大限の愛情表現をしてくれた相手がそばにいて、それに応えられない己を責めずにいるなど。気にする事はない、といくら言われても、考えないなんて不可能だ。
いっそ顔を合わせなければ。いや、そう言えばきっと晃は悲しむ。どうせなら、嫌って欲しい。仕事だろうが二度と会いたくないと言われれば、俺は進んで従えるだろう。
── 本当にそうか?
ところが、胸の奥底で声がする。彼はお前にとって、もはや「誰の代わりでもないかけがえのない相手」になったのではないのか、と。もしもこれきり会えなくなったら、絶望するのは自分の方ではないのか。
そして多分「光に対しても」、それは同じ気持ちなのだ。
自分の狡さを憎悪する。両方の手を、握ったままでいたいなんて。
「俺は、バイト続けて良いのか?晃の想いに応えられなくても?」
「当たり前だ。お前と一緒に過ごせて、俺は自分の気持ちに気付けた。深く触れたいと、愛おしいと感じることが俺にもできたんだってな?お前の心がどこにあろうと、それは変わらない。自覚できたことが、俺には幸せだったからな」
「うん……うん……」
裸で抱き合ったまま、何度もキスを交わす。また身体が熱くなる。凍える季節ではないが、濡れれば体温は奪われる。だがそんなことも気にならず、むしろ接した部分は火照り続けた。混じり合う鼓動のリズムも速い。頬を伝うのがシャワーの水滴か涙かすらも分からず。
「な、鞍。俺は全部伝えたんだ。お前も何かあるなら言えよ」
「俺は」
相手がどう思っているのか、自分がどう思われているのか、それが分からなくて、怖い。頭に浮かぶのは、いつだって最悪のパターンだ。
何の取り柄も魅力も無い、俺みたいな人間が自分の希望や欲求を相手にぶつけるのは迷惑だろうと、そう思っていた。先刻脳裏を過ぎった願望……会えなくなるのは嫌だと口にするのさえ。ひたすら、おこがましいと思う。
「俺は?鞍、お前の気持ちが知りたい」
髪を撫で、滔々と説得するように晃は繰り返した。促されて息を吐き、口を開く。
「俺は、晃が好きだ。キスされても触れられても嫌じゃないし、それどころか、してほしい、って思ったときもある」
「ん」
おそらく晃は、穏やかに微笑んでくれている。そうなのだろうと思いはしても、眼を見られない。自分の想いを告げるのが、これほど苦しいなんて。
「でも、わからないんだ。光のことを忘れて、晃と一緒にいていいのか、って。たった三日間なのに、晃は俺の事いっぱい考えてくれて、特別に扱ってもくれて。ほんとに嬉しかったのに、煮え切らなくて」
苦しい。言葉を嗣ぐごとに。
誰かを本気で好きになってはいけないと、ずっと思ってきた。好きになれば、捨てられる恐怖に押しつぶされそうになるから。そして俺という人間は、いつ捨てられてもおかしくない要素ばかりを持ち合わせているから。
その俺を、光も晃も愛してくれた。手を伸ばすのが怖い、そんな手を掴んで引いてくれた。今まで生きてきて一度たりとも出逢えなかったのに、立て続けにそういう相手が現れた。
「選ぶなんて、どちらかを忘れるなんてこと、できない」
「そうか、わかったよ」
俺の頭を、晃はぎゅっと抱き締めた。広い胸が温かい。
「無理に忘れなくてもいい。実際そんなこと無理だ。お前は最初に言ったが、記憶から消し去るなんてできるはずないからな」
腕を緩めて、改めて俺を見下ろす暗い赤褐色。肌を隠すために密着していたが、抵抗ももう薄れた。
「いいか、明日は宮城家に帰れ。光一郎との約束、守ってやれよ。俺に今言ったこと、光一郎にも思ってるんだろ?」
やはり見抜かれた。正直に頷く。
「それでいい。光一郎と顔を合わせて、お前自身がどうしたいかもう一度よく考えろ。さっきみたいに諦め半分で言うんじゃない。お前の決断を、俺は待ちたい」
晃の言葉が嬉しかった。嬉しいと思ったとたん、涙が一気に溢れた。
「泣くなよ。それに、今日だけは別だ。今日、今だけは……俺のことだけ見ててくれ」
再度頷く代わりに、もう一度腕を彼の背に回して抱きついた。
ともだちにシェアしよう!