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第三章 北極星(ポラリス)・45
◆◇◆
夕食は、ハンバーグにした。これも和の得意料理だった。まだこの家に三人でいた頃作ってもらった記憶がある。光も好きだと言っていた。なのでやはり気が引けたのだが、俺が普段作るのはどちらかといえば和食寄りだったし、何日かぶりに用意するのだから多少手間のかかるものにしたかった。
デザートは作り慣れてはいないし時間もかけられなかったので、果物をふんだんに飾ったパンケーキにした。。幸い、軽くネットを検索したら手頃なレシピがみつかった。生地には全粒粉と豆乳を使い、砂糖も控えてある。食事が済んだら焼き上げ、カット済みのフルーツで仕上げられるよう下ごしらえしておく。どうせ旅行先では食べきれぬほどの料理が出て、加えて酒も呑んだはずだ。見た目こそ豪華そうでも、胃に優しいものが良いと思った。
「たっだいまー!!」
呼び鈴の鳴ったドアを開くと、光が満面の笑みを覗かせる。三和土に荷物をどさっと置き、即座に俺を抱き寄せてキスをした。避ける暇もなく。
「会いたかったよおぉ、鞍ー!」
更に繰り出そうとする二度目の唇は辛うじて手で封じる。
「たっ、たかだか三日四日で何言ってやがる!早く手を洗ってうがいしてこい!」
はぁーい、と気の抜けた返事を残して、光は素直に洗面所へ向かった。無事の帰還と、留守中の俺の様子に疑念を持たないでいてくれたことに、心から安堵する。
「はい、これお土産ー」
食事の準備が整ったテーブルに、光がとん、と袋に入った白い正方形の箱を置いた。
「なにこれ?忙しいんだから別にそんなんよかったのに」
「いいから開けてみなって。うっわ、ハンバーグおいしそ」
先に箸を付けていいぞと言い添えて、箱を開いてみる。一瞬ぎくり、と身が強ばった。
「……プリン?」
「そ、地元でも超有名な名物プリンらしいよ!もー帰り間際時間見付けて店探すの大変だったんだから」
食って構わない、と言ったのに、光は給食時の小学校低学年生ように、両手を膝に置いてニコニコとこちらを眺めてる。
「な、んだよ。デザートならちゃんと用意したぞ?約束通り」
「うん、分かってるよ?それは、鞍に買ってきたの。好きでしょ?プリン」
「…………え?」
なんで、と口に出そうとして、喉が詰まった。釈七さんはともかく、どうして光までそれを知っているのか。こいつの目の前で食べたことなんて一度だって無いのに。
「あれ、違った?」
「い、いや。そう、だけど……でも……」
光も俺の疑問に、そのとき気付いたようだった。
「だってさぁ、カフェのケーキを持ち帰ってくるとき、鞍ってば必ず食べ終わったあと俺を先に風呂に行かせるでしょ?なんか変だなーって思って鞍がお風呂入ってる間にゴミ箱漁ったら、食べた覚えのないプリンのカップが捨ててあるんだもん。別に取らないのに、っておかしくて覚えてた」
「ゴミ、って。ストーカーか変態か」
「ひどっ!残ったカラメル舐めたかったのだけはちゃんと堪えたのに!!」
「……引くわ、それ」
いつも通りの、くだらない会話。これに俺は、どれだけ和まされているのだろう。
冷蔵庫に箱をしまう間も光が食べ始めることはなく、結局顔を合わせて「いただきます」の声を揃えた。
食後コーヒーを淹れ、光がパンケーキを頬張っている向かいで、俺はプリンをスプーンで掬った。きっと良い卵を使っているのだろう、カスタードはオレンジ色を帯びて、味にもコクがある。
「うん、すっげー美味い」
「よかったぁ、苦労して買ってきた甲斐あったよ」
自分が隠しごと下手なのは認めるが、だとしても二人に見破られていた事実には驚く。もしかしたら、と考えても、本人が口にもしない好物を推し量って作ったり買ってきたりなど、相手を慮らなければ多分しない。
半分に欠けたオレンジの月に、一滴の雨が降った。
「鞍?!どっ、どうかした?」
「うぅん?なんか、さ、嬉しくて」
目を擦って弁明した。「好きだ」という言葉では補えない、そんな気持ちがこの甘い食べ物に凝縮されているように思えた。俺はどちらもまだ全部見えてないのに、二人はプリンという形で俺に与えてくれたのだと。それを思うと嬉しいのはもちろん、悔しいような申し訳ないような感情でいっぱいになった。
答えを出さなくては。俺みたいなどうしようもない人間に、たくさんのものをくれた彼等に。それがどんなに言いづらく、言うのが怖いものであっても。
「光……実は、話があるんだ」
「なぁに、改まって」
笑ってはいるが、相手が若干身構えたらしい気配が伝わる。また彼を悲しませることになるかもしれない。不安はあれど、だらだらとごまかし続けるよりはずっとマシだ。
「俺は、この家を出ようと思う」
フォークを持つ手が、ぴたりと止まる。そこに置いていた視線を上げて、顔を見るのが忍びなくて、思わず目を閉じた。
「俺と一緒にいるの、やっぱり嫌?」
言葉の割に穏やかなトーンだった。恐る恐る、瞼を開けてみる。
「ち、ちがっ、そ、じゃなくて……」
視界に飛び込んだ光の表情は、少し困った様子の笑みだった。しかし哀しみも、怒りの色も無い。生徒に難題を質問された、とでもいう感じだった。
正直に伝えよう、そう心に誓った。プリンのカップを一旦テーブルに置き、ひとつ深呼吸する。
「光の出張中、俺、ほんとは釈七さんちにいたんだ」
相手の目が驚愕に見開かれる。当然だろう。
「一人じゃ寂しかった?」
「そ、ゆことじゃなくて。和や光にどう思われてても、俺は正式にはこの家の人間じゃないし、正直、ちょっと居づらかったから。そしたら、釈七さんからよければ来ないか、って誘われて」
「そっか、そりゃそうだよねー。ごめんね、気遣ってあげられなくて」
「う、うぅん?別にそれは光のせいじゃねぇし」
ずいぶんすんなり会話できていることに、俺の方が驚く。先日の件が頭にこびりついていたから殊更に。
「釈君に、よくしてもらったんだね?」
「……うん……」
唇を噛む。こうなって気付く、自分の勝手を認めてもらえるのが、どれほど心苦しいのかを。
「ごめん」
「何謝ってんの?鞍が一人で寂しくしてなかったのは、俺も良かったって思うよ?そりゃ、やむを得ないとはいえそばにいてあげるのが俺じゃなかったのはちょっと悔しいけど」
苦笑交じりに光は言う。ジクジクと胸を蝕む痛みを堪えて、紡ぐ言句を選びながら、俺はゆっくり続けた。
「俺は、光が好きだ。光が、俺に向ける想いも分かってる。いや、もしかしたら全部は分かってねぇかもだけど……でも、釈七さんも俺の事いっぱい考えてくれて、色々してくれて。わからなく、なったんだ。自分がどこにいるべきなのか」
光はじっと俺を見つめたまま、うんうんと相槌を打った。
ふと考える。施設長である稲城や、学校の教師、職場の上司、慈玄……彼等に対して、俺はこんな風に面と向かって、自分の話をしたことがあっただろうか。真正面に構えて、誰かに話を聞いてもらったことがあっただろうか。
そんなこと、これまで一度もなかった。
俺はずっと、「そんなことをしても無駄だ」と思っていたのだ。他人を避け、話し掛けるのを避け、自分の言葉など聞き届けてはもらえないと思い込んでいた。実際、その通りだったかもしれない。光とだって、この間は互いの感情をぶつけあっただけで終わった気がしていたし。
拙い言葉を、聞いてくれるありがたさ。黙って受け止めてもらえるありがたさ。
あの夜、滅茶苦茶に泣き喚くだけの俺を、釈七さんはほとんど口を挟まず抱き留めてくれた。多分そこから、何かが変わった。おそらく、こうして穏やかに頷いてくれる光も。
「だから、一人でちゃんと考えたい、って思ったんだ。一人で暮らして、どうしたらいいのかを」
光が緩慢な動作でフォークを置いた。やはり大きな動揺は見えない。
「鞍、こっちおいでよ」
向かい合った位置から、ソファの隣へ呼ばれる。躊躇したものの、そろりと近寄り、座った。光は後ろから腕を回し、静かに俺の肩を抱き寄せる。開いた手で、髪を梳き撫で。
「偉いね鞍。そういうこと、きちんと言えるようになったじゃない」
小さな子供をあやすような口調で、光が言った。こうされてようやく、俺も自分の考えが正しく相手に伝わったのだと確信が持てた。張り詰めていたものが切れて、胸に顔を埋める。
「うん、ごめん、ありがと……」
口付けもせず、光は緩やかに髪を撫で続ける。いつも感じる、ぞわりと走る熱に耐える経過はない。釈七さんの時と同じように、心地良く包まれる温度があるだけだった。
「鞍、俺もね、もう不安にはならないって決めたんだ」
「不安?やっぱ、不安だったのか?」
顔を少し上げて覗き見る。普段の気の抜けるような、馬鹿みたいな笑顔ではない。それこそ兄のような父親のような、慈しむ微笑。光にもこんな顔があったのかと意外に思う。
「そうじゃないけど、やっぱり自分のこととか考えるとね?だけど、俺も強くならなきゃ、って思った。性格なんてそう簡単には変わらないけど、鞍を見てたら少しずつでも、ね」
髪を撫でていた手が、頬に滑り落ちる。じんわりとした温かさが、皮膚に沁みた。
「鞍の好きなようにしてごらん?俺は、待ってるから」
待ってる。釈七さんにも光にも、同じ言葉をもらえた。
俺のわがままのために。嬉しくて悲しくて、迷う自分が申し訳なくて、また喉の奥がツンとこみ上げる。
「ありがと、光」
ようやく初めて、涙を拭うようにキスが落ちた。
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