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第四章 宵の明星・3
元妖である鞍吉は、こんなものを見せる前に己の中の奥底に眠っていた記憶の破片が甦ったらしかったが、前世の履歴らしきものが慈玄でさえすべて読み取れぬほどの些末な「気」でしかない和宏には、正体を知らしめるにはこの方が有効だった。怖がらせたり怯えさせたりはせぬだろうか、という危惧も慈玄は覚えたが。
かくいう和宏は、頬を微少に紅潮させ、眼を瞠って固まったまま。呼吸を整え、絞り出すようにやっと声を発した。
「触ってみても、いい?」
「あぁ、どうぞ?」
少年のしなやかな指先が、黒い威容に伸びる。和宏の手に伝わったのは、ふわりとした紛れもない羽毛の感触。小鳥を掌で包んだ時のような、血の通った温かさもある。明らかに飾りものではない、「生きている」翼だ。
「飛べるの?」
「もちろん」
大型の猛禽類が羽根を畳む動作で、双翼が慈玄の身体に引き寄せられる。と、あっという間に跡形もなく消え失せた。すでに慈玄の背は和宏がいつも風呂場で洗い流し見慣れている、広く、筋肉のみが盛り上がった元の状態に戻っていた。
「音はしなくなったな」
浴衣に袖を通した慈玄が、立ち上がり縁側に面した障子を開ける。雨はもう上がっていた。宵闇はほの白く春霞にけぶり、いまだ微かな雨雲で滲んだ朧月が覗いている。
慈玄は微笑を浮かべ、手招きした。襟を合わせ直し帯を結わえながら、和宏が応えて近づく。
「時間も遅ぇし、さっきまでの雨だ。今頃空を見上げる奴ぁいねぇだろ」
屈み込んで和宏を抱きかかえると、縁側から素足で庭に降り立った、と、思われた。しかし慈玄の両足は地面に触れることはなく、真っ直ぐに上昇する。
腕の中から和宏が見下ろせば、本堂と住居部分の瓦葺きの屋根がどんどん小さくなっていく。逆に首を捻って上を見れば、霞んだ月が近づいていた。
「うわ…………ぁ……」
元々高台に所在している慈光院だが、その門前から見るよりもっと遙か遠くが見渡せた。雨は霧に変わり、遠景を薄布で覆ったようではあったが、それでも疎らに灯る建物の明かりが、深海の夜光虫よろしく揺らめいている。
四月の夜はまだ肌寒い。上空になれば尚更。冷気を遮るようにして、慈玄はしっかりと和宏を抱き締めた。
「驚いたか?」
眼下に広がる絶景を見たまま、少年は頷く。
「っていうか、服着たままでも出せるんじゃん」
「そりゃそうだ。裸で飛び回るわけにはいかねぇからな?」
少々場違いな気もする不服を、慈玄はニヤリと笑って受ける。
「妖の変化ってのぁ、ちっと科学的に言や、物質を構成する原子の数や連鎖を組み替えて行う。つっても現代風にその理屈を解明することはできねぇんだが。翼を生やしたり消したりは、皮膚や骨や筋肉を『鳥の翼の形状にもってく、元の形状に戻す』っていう作業だ。その際、細胞が服などの繊維の微細な隙間を縫えば、着たままでも変化はできる。まぁそんな細けぇ話はどうだっていいんだが」
学業の成績は優秀な和宏だが、こんな非現実的な状況の中でそんなことを言われてもさっぱり理解不能だろう。眉を顰め頭を捻る様子を目視して、慈玄は話を締めた。
「俺が『妖』だって証明するには、あぁして見せた方が分かりやすかっただろ?」
おどけた口調で言う。が、慈玄にとってこれは一種「賭け」でもある。
「人ではない化け物」だと和宏に明かして、それでも尚この少年は自分の傍にいてくれるのだろうかと。
寺の裏手は山地にさしかかる。斜面を手前に旋回し、翼を持つ異形の住職は居住する家屋の縁側に着地した。ばさり、と羽ばたく音だけを残して、双翼は再び慈玄の背に消える。抱えられた和宏は、寒さもあったのかもしれない、しがみついてわずかに震えている。
「やっぱり、信じられねぇか。それとも怖ぇか?」
畳の上に身体を下ろして、慈玄は和宏の顔を伺う。当の少年はゆっくりと身を離すと、目を閉じ、はぁ、と深呼吸をひとつ。
緊張が走る。その口からどんな返事が飛び出すのか、固唾を呑んで見つめる慈玄。
開いた大きな双眸には、いつもと変わらぬ煌めきが宿っていた。いやむしろ、薄暗い座敷で、それは通常よりも強い光を放っているように見える。張らずとも、澄み渡る水のような鮮明さで、和宏は言った。
「それでも。たとえ人間じゃなくて妖怪でも、慈玄は、慈玄だよ」
戸惑いがまったくなかったわけではないだろう。だがこの少年はいつだって、揺れ動く気持ちの果てにこうして一条の道筋を見出す。決意は光の軌跡となり、後続の者を導くのだ。
改めて慈玄は、和宏の持つ不思議な「力」を思い知る。自覚などないだろうし、当人にしてみれば確信し背負えば重荷にもなりかねないものだと考えはしても、実に希有な、何物にも代え難い能力。
「だから、何も変わらない。慈玄がいやだ、って言うまで、俺はここにいる」
気の流れが強まる。和宏が何事かを決心するたび、この「光」は気高さを増す。
きっぱり伝えたのが少し照れ臭かったのか、頬を染めて和宏は小さく笑った。
「あぁ……ありがとな、和」
やはりこの少年は、自分の闇をも照らすかけがえのない存在なのだ。慈玄は再認識する。柔らかな赤茶の髪を撫でた手は、ふいにその頭部を引き寄せた。
「いやだなんて、間違ってもありえねぇよ」
口付けを落とした髪に、慈玄の呟き声が埋れた。
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