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第四章 宵の明星・13

◇◆◇ 「でもさ、慈海さん呼び出すってどうやって?スマホとか持ってるの?」 「あはは、さすがにそれはねぇなぁ。あってもあそこじゃ電波なんざ入らねーよ」  チェックアウトを済ませ「せのを荘」を出ると、和宏が疑問を口にした。もちろん、結界内に電話などの利器は無い。答えを言うより早く、慈玄は一枚の式符を取りだした。 「こいつが書簡代わりになる。俺の代わりにこいつが飛んでいって、用件を伝えるわけだ」  ひらり式符を翻すと、指で面を切るようになぞる。 「これでよし、と」  両手で挟み、再度開く。すると掌に乗った式符はふわりと浮かび、すい、と空へ吸い込まれていった。 「へぇ、すげー、魔法みたい!」 「魔法か。まぁ似たようなもんではあるが、な?原理はスマホとさして変わらねぇ。声や文字を乗せるものが、念か電波か、の違いだけだな」 「ふぅん?」  首を捻る和宏の頭を、慈玄は軽く撫でた。 「いわゆる魔法とちと違うのぁ、『何もないところから何かを生み出す』ことができねぇ、ってことかな。人間が何かを作り出すのと同じで、一応の原理がある。それさえ理解しちまえば、あとは慣れだ。式飛ばすくれぇなら、いつかお前にもできるようになるかもしれねぇぜ?」 「ほんと?!」  和宏の瞳がキラキラと瞬く。  慈玄が頷く。戯れ言でもなんでもない。和宏の持つ「気」は、昇華覚醒すればその程度の術なら難なくこなせるかもしれない「可能性」を秘めていた。とはいえ無理に開花させるのも、彼は気が進まなかった。特殊な力を操れるというのは、なにも利点ばかりではない。それどころか「普通の生活」を送るには負荷にもなり得るのだから。  そして少年の潜在能力を、微少とはいえ慈海も慈斎も感じ取れたはずだ。彼等がそれについて、各々どう感じたのかは慈玄にも計り知れないが。 「あぁ。そん時ぁちゃんと教えてやるさ。行こうか」  前日、先に行きそびれた道を二人は進む。  滝の脇を過ぎると、渓流から経路は逸れてゆく。登山道は狭いなりにも、丸太を組んだ階段などができており、歩きやすいよう整備されていた。  カサカサと、茂みを鳴らす音が聞こえる。やはりまた「何か」が……和宏が身構えると 「心配すんなって。ありゃあ狸だ」  慈玄が笑って指し示した。  狸は一瞬だけ顔を覗かせると、見る間に駆け逃げる。 「可愛いな。野生の狸なんて初めて見た」  和宏も顔をほころばせる。  この束の間の森林浴は、旅の実感を味わえるかもしれない。爽快に凪ぐ五月の風を身に受け、とんとんと段を軽やかに上っていく和宏の後ろを、慈玄は追った。  中腹部に達した頃、杉の大木が道を塞いだ。ご丁寧に囲いがしてあり、木製の立て看板には「馬隠れの杉」と銘打たれている。  この杉は、慈玄も見覚えがあった。古い昔、弥勒寺に参拝する権力者が秘かにここに馬を繋いだのだ。山頂への道は続いているが、真横に折れると寺への旧参道に出る。参詣は本来、城主であっても馬での乗り付けを禁じていたため、もし馬がいたら奉納と見做し、天狗達が連れ去っても構わないと言い渡されていた。実際幾度か、この場所から馬を頂戴したことがある。  そんな由来はともかくとして 「すっげー、この杉でかいなー」   射し込む陽光に目を細め、和宏が見上げた。 「あ、なぁなぁっ!この木、俺の何倍だろ!」  両手を広げ、幹に抱きつく和宏。遊歩を心底愉しんでいるのが窺える。 「虫がくっついてても知らねぇぞ?」  慈玄がにやりと口端を上げると、虫類が極度に苦手な少年は即座に飛び退いた。 「っ!うぅ、意地悪っ!!」  後じさりした拍子に、土から盛り上がった根に足を取られる。蹌踉けかけた和宏の肩を、何者かの両手が支えた。 「よぉ、悪ぃな。忙しいとこ」 「まったく、貴様という奴は」  低く響く声に和宏が振り向くと、修験者然とした天狗がそこにいた。 「じっ、慈海さん!!」  思わず上げた和宏の驚愕声に反応して、数羽の鳥がバサバサと羽ばたき飛び去った。 「あまり山中で大声を出さないでもらえるか?動物たちが怯える」  掴んだ肩をそっと押し、慈海が諫めた。 「ご、ごめんなさい」  和宏は慌てて、身を縮め両手で自分の口を押さえる。 「以後注意してくれればそれで良い。で、何の用だ慈玄。後処理の最中なのでな、なるべく手短に願おうか」 「へいへい、分かってますって」  悪戯を見付かった子供のように口を尖らせた慈玄だが、ちらりと和宏を見やるとすぐに真顔に戻った。  当の和宏は、慈海ともう一度会いたいと言ったものの、いきなりお叱りを喰らってなにからどう話して良いか思案に暮れているようだった。ぶつぶつと独り言を呟きながら言葉を選んでいる。その隙に二天狗は彼から数歩遠ざかった。 「どうも、慈斎にまんまとしてやられたらしい。あぁなっちまったら、見習いどもじゃとてもじゃないが手に余る。ったく、中峰の奴、相変わらず手段を選ばねぇ」 「何度も言うが、それもこれも元はといえば貴様の所業の因縁だろう。私も、貴様が下界に居続けることを良しとはしておらんのだぞ?」 「わーかってるって!すまないとは思ってるよ。埋め合わせは必ず」 「そう願いたいものだな。とにかく、今はまだ明確な形となってはおらんが、それも時間の問題だろう。むしろ、今の状況では貴様自身の手をかける方が、『アレ』を活発にしかねん。数日、が目処というところだが……とりあえずは私の方でなんとかしておこう」  和宏とていつまでも、深刻な様子の二人に気付かないはずがない。しかし自分に聞かせたくない内密な話、と察知すればこそ、ことさら自分の方から離れた。和宏はそういう気遣いをする少年だった。改めて、『馬隠れの杉』を見上げている。 「すまねぇ、恩に着るよ。あ、っと、それから」  慈玄の声音が、普段の軽い調子に戻る。 「あいつ、お前のこと相当気に入ったみてぇだぜ?呼び出したのぁそれもあってさ。おぉい、和ー!」  名を呼ぶ声に、和宏が近づいた。 「あ、話、終わったの?俺、なんか邪魔、だったかな」 「んなわけねぇだろ?待たせて悪かったな」  慈玄にひとつ頷くと、和宏は慈海の眼前におずおずと立った。まるで、愛の告白でもするような緊張感を漂わせて。 「あまり長くは話せんが。なんだね?」  先に声を掛けた慈海に、和宏はビクッと直立不動になる。 「あ、えぇ、っと、その。こっ、これから桜街に帰るんですけど。その、慈海さんに会えて嬉しかったです!色々迷惑かけちゃってすみません!」 「迷惑をかけたのは君ではなく、この男だろう?」  慈海は目線だけで、慈玄を示す。 「いっ、いえ!あの……昨日も言いましたけど、連れてってほしい、って言ったのは俺なので」  和宏は傍目にも、ガチガチに身を強ばらせている。  永い厳たる隠遁生活で、慈海には『情感』の機微、といったものが少しばかり欠落していた。だから、和宏がなぜ自分に対しこれほどまでに緊張しているのか解せない。先刻苦言を呈したせいで怯えてしまったのだろうか、と思うくらいだ。  事情を知っている慈玄は、彼等の食い違いがおかしくて笑いを堪えていたのだが。 「だとしても、君が気に病むことではない。厄介な男と知り合ってしまったという点では、不憫だとさえ思う」 「どーでもいいけど、ひでぇ言われようだな」  口を挟んだ慈玄を無視し、慈海は和宏の強張りを解くように、穏やかに続けた。 「君に危害が及ぶのは我等も本意ではない。できることならば慈玄とは関わらずにいてほしいところだが。それは無理、なのだろうな?」  勧告を聞いた和宏は、一瞬、この時ばかりは困惑の色を浮かべた。が、次には強く明確な声で 「はい。約束、したんです。一緒にいるって」  真っ直ぐに慈海を見返し、告げた。 「そうか。ならばそれで構わん。こういうのもなんだが、慈玄のこと、よろしく頼む」  慈玄が頼る和宏の「光」を、この時慈海もはっきりと感じ取った。自他共に対し峻厳な彼にも、それは眩しく煌めくようであった。 「では、私は戻る」  立ち去ろうと身を翻した慈海を 「あ、あともうひとつだけ!」  あたふたと和宏が呼び止めた。 「なにかね?」 「え、え……っと……慈海さんの好きな食べ物ってなんですか?!」  先程の少年の決意とも取れる返答を隣で聞きつつ、感動に胸を熱くしていた慈玄も、これには盛大に気が抜けた。問われた慈海当人も、唖然と眼を瞠る。 「あ、すみません……。俺、へんなこと聞きましたか?」 「いや」  常にいかめしく引き締まっている面にも、さすがに淡い苦笑を滲ませずにはおれなかった。 「好きな食べ物、か。食は他の命を戴く行為。その時々に戴けるものを、私は戴くのみだからな。どんなものでも、有難く食させてもらっている」 「そうですか。あ、じゃあ俺、慈海さんの為にとびっきりのホットケーキ焼きます!だから、いつか慈玄の寺にも来て下さいね!」 「ほっとけーき?」  人間界に行き来する機会のほとんどない慈海は、現代の知識を掌握する必要性が少ない。故に、ホットケーキがいかなる食べ物かも理解できなかったのだが、頬を上気させ、懸命に伝える和宏に、つい表情が緩んだ。 「そう、だな。楽しみにしておこう。では、な」  少年の頭を一撫ですると、彼は木立の迷路に姿を消した。ずいぶんと長い間忘却の彼方に眠っていた、温かな「情」が、胸の裡に穏やかに沸き立ってくるのを自認しながら。

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