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第四章 宵の明星・46

 中峰の顔色が明らかに変わった。慈海が喉を鳴らし、慈玄はなにか言おうとして声にならぬ呻きを洩らした。 「どういうことだ?」 「俺の中で、言ったんです。慈玄のことは自分が一番好きだって。お前みたいな小僧に絶対に渡すものか、って」  白い面が、ますます青ざめた。元が麗しいだけに、憤怒に震える中峰は悽愴ですらある。 「慈海!!貴様、知っておったのか!」 「申し訳ございません。慈斎の報告では、偶発的なものだと判断しました故」  ここに至り和宏も、自分が拙いことを口走ってしまったのだと悟る。だが、それがどこに起因するのかがわからない。おろおろと、その場にいる全員の顔を順に窺った。  慈玄も慈海も、突然の中峰の激昂に戸惑っている様子だ。和宏が怨霊に憑依された事実を隠蔽され激怒するのは当然だろう。とはいえ、主の反応はそれにしては若干異様に見える。 「それで得心がいった。あの日、あやつを生半可に浄化したのは貴様だったのか」  独り言のように中峰は吐き捨てた。そして、冷静さを取り戻そうとしてか何度か深く息を吐いた。 「どうりで、思いの外あやつの膨張が拡大してしまったわけだ。その上あの場に留まったのは……」 「おい中峰、わかるように説明してくれ。和の憑依がなんだってんだ。慈海の言うとおり、ただの事故みてぇなもんじゃねぇのか?」  慈玄が問い質す。中峰は答えない。和宏を睨み据えたまま。 「言うだけ無駄だ。小僧、やはり貴様は、ここで我が始末した方が世のためらしい」  す、っと息を吸った中峰が手を伸ばす。先ほどとは比べものにならないくらいの冷気が、鋭い刃となって襲いかかる。真空の裂け目が、牙を剥いた。 「和!」 「和宏君!!」  二人の天狗が盾となるために立ち塞がった。 「っ、だめだっっ!!」  衝撃音が弾けた。花びらが散る如く、光の粒子が舞う。 「だめだよ……もう、俺は誰にも怪我させたくない」  ひらひらと灯った光は、音も立てずに揺らめきながら静かに消えていく。まるで、和宏の零した涙が飛び散り煌めいたようだった。その光に包まれ、凍えた刃は失せた。術を放った中峰も、点々と降り注ぐ光の粒を呆然と眺める。 「中峰さん」  濡れた大きな瞳で、和宏は中峰を見た。 「お願いです、ちゃんと言って下さい。なんで急に、こんなことしたんですか?」  沈着に見えた迦葉の首領が、一瞬取り乱したのは明白だ。苦々しそうに顔を歪めて、中峰は口を開いた。 「あやつは、貴様の力を知ったのだ。貴様に太刀打ちするために、まだまだ闇を喰らう」 「待て。そりゃ一体どういう意味だ中峰」  ただならぬ言い様に、慈玄が問いかける。蒼白の面に、侮蔑が漂った。 「本当に愚鈍になったものだな、慈玄。貴様はあの晩、何を見ておったのだ。いくら下界 で自堕落に陥ったとはいえ、おかしいとは思わなかったのか?あやつを『封じるだけ』の作業に一晩以上かかったであろうが」 「?!」  そういわれても、慈玄が迦葉の結界内に足を踏み入れたのでさえ十年以上の空白期がある。人間界にいる間は、無論大きな術は使っていない。その上、慈海等から怨霊が以前にも増して膨張していると聞いた。疲労は大きかったが、妥当であったと考えた。  だがよくよく思い返せば、慈玄と和宏を引き離す画策を企てたにしても、呪術を得意とし、かつ山に常駐して日頃から鍛錬を怠らない慈海でさえ手が着かなくなるほど、中峰が怨霊を解き放つだろうか。下手をすれば、迦葉全体にも害を及ぼしかねない。あれほどまでに膨れあがったのは、実は中峰にも想定外だったのだ。プライドの高さ故焦燥感を表に出さなかったが、内心は相当気を揉んでいたに相違ない。  覚醒に至らない、未成熟だと天狗たちの誰もが判断した和宏の「気」を、かの怨霊は真っ先に嗅ぎつけ、そして畏怖した。 「気が付いたか。貴様も、あれで完全に治まったとはよもや考えてはおるまい?現に、貴様はすべてを封じ損ない、それが小僧に憑依した。見たか、先刻の光。この小僧はまたもや、我の術を破った」  すでに見えなくなった粒子をも払うように、中峰が自らの身をはたく。 「つまり俺の思い入れの深さだけじゃなく、掌握できねぇ和の力に抵抗するために、『アレ』は膨らみ続けた、っていうのかよ」 「そのとおりだ」  中峰の声は無慈悲に響く。和宏は狼狽えたまま、彼等の会話を必死に脳内で整理しようとしていた。 「もう一つ、残念な話をしてやろう。小僧が体内から追い出した闇の一部は、消滅しきれずかの街に留まっておる。どうやら、貴様等が住む場所には、別の闇があるらしい。しかもかなり根の深いものがな?『アレ』はそれらと融合した。いや、呼び起こした、と言うべきか」 「なんだと?」  あの一見なんの変哲もない、穏やかな桜街にそんなものがあるというのか。和宏たちには信じがたい。といって中峰が、ただの脅しでそんな話をしているのではないことは察せられる。 「いずれにせよ、小僧の力の源は未だ我にも見当がつかぬ。小僧自身、自覚もなければ覚醒の糸口も無い。身に危険が及ぶのは必至であろう。どうだ慈玄、貴様は小僧が危惧に見舞われた際、自我を保てるのか?貴様自身も暴走し、被害が多岐に渡る見込みをどうやって防ぐ?」  慈玄に反論の余地はない。ぐ、と声を詰まらせ押し黙る。 「……そんなこと……」  ふと、和宏が小声を洩らす。再び全員の目線が和宏へ向けられた。 「そんなこと、俺がさせません」 「貴様は我の話をことごとく退けるようだな?貴様の望み通り、懇切丁寧に言い聞かせてやったというのに」 「そうじゃないです。たとえ俺に何があろうと、慈玄の暴走だけは、俺がさせません」  突如、中峰は哄笑した。一心に眼差しを向ける和宏を一瞥し。 「なにを根拠に?良いか、貴様が相対しているのは化け物だぞ?化け物に、人間如きのどんな道理が通用すると?」  口惜しさに肩を震わせながらも、和宏は目を逸らさない。力強い声で言い返す。 「化け物じゃありません、慈玄は、慈玄です。俺が慈玄を信じてるから、絶対、そんなことにはなりません」  瞬き一つしない目は、また涙で濡れていた。一筋溢れ、頬を滑った。 「それに俺が原因でなにかあるなら、尚更自分でどうにかします。俺に力があるなら、覚醒でもなんでも。だから、見ていてください。俺たちが、どうするかを」  中峰が笑いを引き込める。否、他のあらゆる感情を。玲瓏な美しい顔は、能面のように平坦になった。 「そうか。気が変わった」  発する声も応じて平静になる。仏の守護者は、勅命でも下すように淡々と告げた。

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