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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・1

◇◆◇  低く雲の垂れ込めた空に、紫煙が溶ける。場所が場所だけに、誰かに見咎められれば少々問題になるかもしれない。たとえ、生徒のくゆらせたものではなかったとしても。  公共施設での喫煙は、もはや御法度にも等しい。教育の現場、ともなれば尚更。そこいらのコンビニで煙草は未だ普通に売られているのに、吸えばたちまち悪者扱い。ちぐはぐな現象だ、と煙を吐く口は皮肉に歪む。  一貫制のマンモス学校、私立桜校。その屋上に彼はいる。  こんな時間を持てるのも、養護教諭ならでは。一般の教諭では、今の世の中そう容易くはないだろう。もっとも、本来「身体に悪いから喫煙などやめなさい」と諫める方が、その立場ならば妥当なのだろうが。  丈の長い白衣が風に舞う。染めているのかさえ定かでは無い、金色の長髪をなびかせ。煙草を咥える薄い唇も、それを挟む指の仕草も、自棄に艶めかしい。長い睫毛に縁取られた切れ長の目元。血液の如き暗赤色の滲む瞳はやや虚ろに、フェンスの先の景色を見つめる。密かに憧れを懐く女生徒が多いというのも頷けた。どこか影のある男に、女性は惹かれがちだ。 「また、ここにいたんですか」  彼以外人気のなかった屋上に、現れた一人の生徒。赤茶色の柔らかげな癖毛に、歳よりも顔の印象を幼くしている大きな眼。女子のような愛らしい面で、成績が良く、運動神経も抜群。おまけに性格だって良い。  こんな大きな学校でも、結構知られた有名人だ。学年や男女問わず慕われ、ファンクラブまであると聞く。当然、保健医である彼が知らないはずもなく。  以前もこの男子生徒は、屋上に佇む白衣姿を捉えていた。何をしているのかという興味もあったが、独りぽつんと遠くを見ている寂しげな様子が気になって。 「煙草、あまり、よくないと思います」  物怖じしない口振りに、携帯灰皿に吸い殻を押し込んで、男は苦笑する。 「わざわざ忠告しに来たのか。まったく、お前は絵に描いたような優等生だな、宮城」  流れるような動きで生徒に近づくと、保健医は彼の首筋を撫でる。びくり、と細い肩が跳ねた。 「ところでお前。最近なかなか面白い男と付き合っているそうじゃないか」 「え?」  生徒……和宏が、目の前の相手に自分の現状を話した覚えはない。彼の兄はこの学校の中等部教諭で、保健医とも無論交流はある。だが、弟の交際関係を事細かに話して聞かせたとはどうにも考えづらい。 「美李から聞いた。今自宅にはおらず、その男の元にいるそうだな?」  あぁ、と和宏は納得した。彼のアルバイト先であるカフェのオーナーとも、この男は親しいのだ。カフェの面々ならば、和宏が現在「慈光院」という寺に居候していることは皆知っている。  しかし、「面白い」とはどういう意味か。  確かに和宏よりもだいぶ年上には見えるし、住職、という特殊な職業にも就いている。それを指摘する言葉だろうか。  どう返答をしたものか、和宏は戸惑う。しばし首を捻って、「はぁ」という曖昧な声を出すに留まった。 「曲がりなりにも教諭としては、あまり感心しないな。そいつとお前はどうやら、不健全な関係、なのだろう?」  手を添えていた和宏の首元に、男の唇が寄った。微かな脂臭さが、彼の鼻を掠める。 「……っ?!」  ちゅ、と音を立て、白い肌が吸われた。和宏本人には見えないが、くっきりと赤い痕がつく。 「っ、や、やめてください!!」  羞恥に顔を赤らめた和宏は、白衣の身体を軽く押しのける。吸血鬼のように保健医が、舌舐めずりした口を指先で拭った。 「むっ、夢露(むろ)先生には、関係ないとおもい、ます!」 「関係ない?そう言うな。仮にも俺はこの学校の保健医だからな」  夢露、と呼ばれた保健医はくっ、と喉の奥で笑う。やたら挑発的に。 「お前は俺の身体を心配して、煙草はやめろと言うのだろう?だったら、俺が生徒の心配をしてもなんら不思議はなかろう。相談になら、いつでも乗ってやるぞ」  この保健医に、妙な噂があるのを和宏は思い出した。  中高生ともなれば、性的な悩みも尽きない。こっそりそんな類の相談事を打ち明ける生徒を、彼は「カウンセリング」と称して、密室の保健室で何やら行っているという。告発されたという話は無いので、単なる噂だと和宏も思ってはいる。が、恋愛事に鈍い和宏でも、この男のただならぬ色気は感じ取れる。用心に越した事はない、と身を引いた。 「しっ、失礼します!」  一歩下がって踵を返し、走り去る少年の華奢な背中を、夢露は愉快そうな笑みを浮かべて見送った。 ◆◇◆  週末のカフェ「sweet smack」は、大層な人で賑わっていた。  このカフェでは、事あるごとにイベントが行われる。バレンタインデーにホワイトデー、ハロウィンやクリスマスといったメジャーどころは元より、花見客が多い桜の頃、果てはひな祭りに端午の節句といった日本伝統のものまで、それこそ毎月のように。この国は、行事に何かと事欠かない。それを口実に商業へ繋げるのもまた世の常。  ところが。梅雨に入る六月というのは、一年を通じ最も閑散期と言える。観光スポットなどもそうだが、雨天の多い今の時期、客商売は基本どこもかしこも比較的「暇」なのだ。  しかし、それはそれで何となく物寂しい。どうにかこじつけても、客足を遠ざけたくはないのは道理。 「sweet smack」のオーナー、佐久間美李(さくまみり)の趣味は「衣装作り」。  イベントには、彼お手製の服を従業員に着せるのが恒例となっている。 「アルバイト店員を顔で選んでいるのでは」などとこっそり陰口を叩かれるほど、この店は見目良いウェイター、ウェイトレス揃い。彼等の「コスチュームプレイ」を楽しみに訪れる客も多い、というわけだ。  そこで、この閑散とした雨の季節にも美李はこれを企画した。紫陽花をイメージした青や赤紫の布と、雨粒を彷彿とさせる透明のラインストーンをちりばめた服を用意し。  ロッカールームで烏丸鞍吉(からすまくらきち)も、この日はいつもの制服と違うものを身に付けていた。  彼は現在調理補助が主な仕事なので、本来ホール担当と同様に衣装を変える必要はない。だが、美李のゴリ推しと釈七や司の口添えで、つい着用を了承してしまっていた。  淡いブルーの短パンに、紫色のチュールレースのフリル。足捌きは悪くないが、露出が多いのがどうにも気恥ずかしい。作業中はカフェエプロンで覆い隠しているものの。 「可愛い格好だな、それ」  からかっているばかりではないような口調で、共に着替えに入った御崎司(みさきつかさ)が言う。  イベント時は、アルバイトも総動員だ。通常あまり頻繁にシフトに入らない大学生たちも顔を揃える。司と年中つるんでいる南那津蓮(ななつれん)は、今回は遅番のようだったが。 「ち、厨房入ってんなら見えないし、俺が着なくてもいいと思うんす、けど」 「いいじゃないか。オーダー品取りに来た俺等が癒されるし」  片方しか見えない瞳に柔和に笑まれながら言われ、赤くなった鞍吉は素足の膝を摺り合わせて俯く。  そういう司の方は、色は似たり寄りけりでも下はスラックスだ。彼だけでなく、副店長という立場にある釈七晃(しゃくなあきら)もそうだった。なぜ自分もそちらのデザインではないのかと、鞍吉は疑問に思う。

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