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第五章 蠍ノ心臓(アンタレス)・2

「あ、それはともかく。部屋、キャンセルしてすみませんでした。ソファーも、せっかくくれるって言ってもらったのに」  もごもごと、鞍吉が詫びた。  釈七との同居が決まり、宮城家で光一郎に話をつけた日。  帰宅後釈七はすぐさま彼に断りの電話を入れたが、鞍吉と一人暮らし用の部屋を手配してくれた司が顔を合わせたのはその後これが初めてだった。契約の手間を無駄にしたことを直接謝らなければと、機会を窺っていたのだ。 「なに、構わないさ。一人にならなくてよかったな」  平然と微笑む司を見て、彼がいつか自室で告白めいた言葉を口にしたのは、最初からこうなることを画策していたのではないかと鞍吉は邪推する。  あのときは嘘だとはとても見えなかったが、あくまでも落ち着いた笑みを浮かべる司に、そう思わざるを得ない雰囲気を彼は感じていた。 「とはいえ、ちょっと寂しいというか、残念な気もするけどな。ま、偶にはまた手料理でも食べさせてもらえると有難いが」 「そっ、そんなんだったら全然!」  鞍吉とて、手を尽くしてもらって何もできないのは後ろめたい。食事を御馳走するくらいわけはないと思った。 「あっ、あの。ちょっと季節外れですけど、俺、鍋ならそれなりに自信ある、んで。ど、どうせなら、皆で食いませんか?ルイさんにも世話かけちゃったから、呼んでもらって」 「ほう?それは楽しみだな。じゃあ、鍋パーティーを計画しておくか」 「は、はいっ!是非!!」  長らく一人きりだった鞍吉は、大人数で食卓を囲むことに憧れを懐いている節があった。居酒屋のアルバイトで身に付けた鍋料理を突き詰めたのもそのためだが、本人に自覚は無い。  自らは意識していなくとも嬉しそうに瞳を輝かせた鞍吉に、司は笑顔で頷いた。 「ほら、そろそろ行かないと釈七にどやされるぞ?」 「あ、そ、ですね」  エプロンを着け、慌てて鞍吉はロッカールームを出る。軽食を作る簡易厨房には既に支度を調えた釈七がいて、厳しい口調で彼を呼んだ。 「遅いぞ、鞍!」 「はい!すみません!!」  同居を始めたばかりの二人、部屋に戻れば多少ぎこちなくも甘く睦み合う関係。しかし、職場においては副店長と部下。  釈七が手短に今日の資材などを説明すると、鞍吉は簡単にメモを取り、即刻作業に移る。調理のアルバイトならば幾つか経験がある彼は、ホールを担当する時とは比べものにならないほど手際が良い。 「今日は司たちがいるから、かなり慌ただしくなると思う。間違いがないようにな?」 「わかりました」  鞍吉にしてみれば、プライベートと同じように接せられるより、仕事は仕事として毅然とした態度を取られる方がやりやすい。加えて、同居を周囲に公にするのも気が引けていたので、馴れ合うところは他の従業員には見せたくない。釈七も、鞍吉のそういう性分は十分理解している。  だが、厨房を鞍吉に預けた去り際。 「衣装、似合ってて可愛いぞ?あとで、な」  耳元に捨て台詞を囁かれる。真っ赤になった鞍吉は、手にしたアイスディッシャーを取り落としそうになった。  くすくすと笑って立ち去った釈七を恥ずかしそうに軽く睨むと、ひとつ息を吐いて気を取り直す。 「いらっしゃいませ!美味しいケーキで、じめじめ気分を吹き飛ばしませんか?」  ハッチからごった返す客席へ、鞍吉は目を配った。  バレエダンサーのように、一際華やかにチュールレースのスカートを翻しているのは、テイラ・ローズという名の女の子だ。どうやらハーフらしいと認識していたが、女性と親しく話すのが不得手な彼は詳細を知らない。そもそも、テイラとシフトが被ることもそう多くはない。  お嬢様気質の娘で高飛車そうに見えるのだが、これがなかなかどうして、客の引き込みは非常に達者だ。美人には違いないし、声掛けも実に自然。甘味がメインのカフェにも関わらず、次々と男性客が案内されてくる。  女性客の方は、もっぱら司が誘導してきた。  いつぞや鞍吉が懐いた印象通り、司の立ち居振る舞いはどこか執事然としている。長身のたおやかな美形に丁寧にエスコートされ、悪い気がする女性などめったにいないだろう。  彼等の活躍で、あっという間に満席となる。「慌ただしくなる」と釈七が言った要因はこれだ。矢継ぎ早に通されるオーダーに、鞍吉も忙しなく手を動かした。  そして、ホールにはもう一人。  女性で、しかも派手なくらい華々しいテイラと並んでも決して引けを取らない、中性的な雰囲気の愛らしい少年。鞍吉と同じフリル付きのショートパンツ……否、丈は彼の方がやや短くも見える。だが、色白でしなやかな体躯にはぴったり嵌まっていた。  こうした催しでは女装をさせられることも多いので、当人は「スカートじゃないだけ良いよ」とさほど抵抗はなさそうだったが。  いろいろなことがあって、言葉を交わすのもぎくしゃくしがちな相手も今日は一緒だった。  とはいえ和宏は、鞍吉に対する接し方は最初と何一つ変わっていない。鞍吉の方が、劣等感を募らせていただけで。  ここで顔を合わせれば、「兄弟として」光一郎も含めた三人で暮らしていた時とまったく同じに、和宏は彼に話し掛けた。避けこそしないものの、対応に戸惑うことが鞍吉には多くなっている。  ちらりと和宏の姿を目端に捉え、鞍吉は視線を逸らす。忙しいのがかえって救いだ。とにかく、今は手元の仕事に集中しようと。  カフェのイベントには、見知った顔もよく訪れる。  和宏が回ったテーブルには大柄な男の影。慈玄が来ているのは、先刻フロアを見渡した際に鞍吉も承知していた。  居候していた慈光院を出て約半年。今になって話す用事もないし、目当ては和宏なのだろうから知らぬふりを通したが。  しばらくすると、また一人。 「あ。い、いらっしゃいませ、先生」  和宏の声の響きに違和感を感じ、オーダーのサンドイッチをハッチに置いたついで、彼もその方向へ視線を向ける。 「あれ、って、確か」  やや光沢のある黒シャツ姿に、見覚えがあった。それも、あまり思い出したくない記憶。 「……保健医」  呟いた鞍吉の口内に、微かに苦いものがこみ上げた。

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