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第50話

嫌な予感がした 急いでトイレの方に向かうと複数人の男子生徒に羽交い締めにされている奏斗がいた 体中傷だらけで怯えた目をしていた それを見た瞬間、自分の中で何かプツンと切れた音がした 強く握った拳が手のひらに食い込もうとも関係なしに、男子生徒に殴りかかった 全員を倒した後、奏斗に安否を確認しようとしたが、鼻血でも出したのか拳に血がついており、それに気づかないまま奏斗に近づこうとすると拒絶されてしまった そして後から来た優也と一緒にその場を去って行った 2人を追いかけることなく、その場に置き去りにされた晶は、はあっとため息をついた後、倒れている1人を無理矢理起こした 「おい、いつまで伸びてんだ。そんな強く殴ってねぇだろ」 「…ぐっ、クソ、いってぇ…」 「言え、なんであんなことしたんだよ」 「俺は、俺は言われてしただけだ!ちょっとビビらせようとしただけなんだよ!」 男子生徒は鼻から垂れる血を拭いながら弁明するように言った 晶に殴られたのがよっぽど効いたのか、もう戦意は感じられず、叱られた犬のように萎縮していた 「別に最後までしようなんて思ってなかったさ!なのに問答無用で殴りかかってきやがって…っ!」 「ふーん、なるほどな」 男子生徒はどうやら誰かに言われてやったようだ とあれば指示を出した何者かを聞き出さなければならないが、男子生徒の誰一人も口を割らなかった 諦めた晶は立ち上がり、とりあえず家に帰る 兄のことが心配だ 不本意ではあるが優也がついているなら大丈夫だろうが、どうも奴は信用できない そのため早足で家に帰ってくると、兄はキッチンにいた なぜかびしょ濡れの状態で、水道の水を懸命に飲んでは吐いてを繰り返していた 明らかに正気じゃない様子の奏斗に声をかけるが、晶を見上げる奏斗の目はどこか虚ろで見つめ合っているのに視線があわない 晶は奏斗をキッチンから引き剥がそうとするが 「げほ…っ!触るな!」 と手を払われてしまった 拒絶されるのは傷つくが、今はそれどころじゃない それなのに奏斗は一向に晶を受け入れようとしなかった 「ぜんぶ、ぜんぶお前のせいじゃないか」 奏斗はそんな事を口にする 時々言われるその言葉に晶は全く覚えがないが、奏斗は晶がいじめの主犯だと信じて疑わなかった 弁明しようとしたが、奏斗は晶を振り払い家を飛び出して行った もちろん後を追いかけたが、すぐに見失った その後も奏斗を探し続けたが見つからなかった 次の日、無事に帰ってきた奏斗に、一連を父親に黙っている条件に、登下校を一緒にするという約束を立てた 今はとにかく奏斗を1人にしない方がいい そう思い毎日奏斗を迎えに行っていたが、結局優也に連れ去られてしまった 優也に連れ去られている間、奴に何をされたのかは知り得ないが、体中に付けられたキスマを見れば容易に想像できた 悔しさと安心が同時に押し寄せて来て、気持ちがぐちゃぐちゃになったのを覚えている とにかく無事に救い出せてよかった 今はただ、奏斗の心を癒すことに集中しよう —————————————————— 事が経って2週間ほど 宮本さんが来た日からちょっとずつではあるが、奏斗が食事をしてくれるようになった 相変わらず部屋にこもっているが、ドア前に置いてある食べ物が減っている それだけでも大きな進歩だった だがやはり心配なので、無理のない範囲で奏斗に話しかけた 「兄さん、起きてる?ここ、果物置いておくから」 「…」 宮本さんの真似をするようにドア前に座り、毎日5、6分話しかけているが、返事が帰ってくることはなかった それでも粘り強く話しかけるのは、奏斗のためだけでなく、晶自身が安心できるからという理由もあった 最近やたらと奏斗が気になってしまう もちろん心配から来ているが、前よりも度が越しているのは、晶自身もわかっていた そう、今回のことにショックを受けているのは奏斗だけでなく晶も同じだった 家にあるハサミ、カッター、キッチンの包丁、ガラス瓶、その他刃物など、誰かを傷つけられるようなものは全て隠すように棚の奥にしまった それは奏斗が乱心した場合刺す、もしくは刺される可能性が頭に浮かんでしまい気が気でないからだ それ以外にも、晶は学校に行かなければならないのに奏斗が心配で早退してすぐに帰ってきてしまったり、家を出る前に鍵閉めを過剰に確認したりなど、自分でも信じられないほど慎重になるようになった 奏斗がいなくなったあの日を思い出し、自分が家を開けている間にまたどこかに行ってしまうんじゃないか。 そんなことが頭をよぎってしまう 家に帰って奏斗の部屋を確認するたび、鍵がかかったままなのを確認して酷く安心してしまう自分がいた 兄がうつ病になってよかった だってそれなら、どこにもいけず、いつまでも晶の側を離れられなくなるのだから こんなこと思ってはいけない 分かってはいるが、どうしてもこのままでいて欲しいと思ってしまう自分が嫌になった 宮本さんは奏斗を救うために協力してくれているのに、晶は心の中で兄のうつ病が治らないように、と願っているのだ 1人で生きていけず、毎日怯えている奏斗を愛おしいと思ってしまうのは、きっと俺が異常だからだ 変化が起きたのは突然だった その日は宮本さんが家に来ており、いつも通りリビングで2人で話していると、2階からキィっと扉を開く音がしたのだ 奏斗は人がいる間は絶対出てこなかった 先ほども宮本さんが奏斗に挨拶をしに行ったので気づいていないということはないはずだ そして静まり返る室内にギギッと2階の床が軋む音がして、思わず立ち上がる そんな晶に宮本さんは落ち着かせるように口に指を当てた 「しーっ。驚かさないように」 「…すみません…」 今も感じる兄の気配を、宮本さんと晶は静かにジッと感じていた 兄の気配はゆっくりと部屋の外を歩き、一階と二階を繋ぐ階段の途中でぴたりと止まってしまった 「…どうしたんでしょう」 「少し、見に行ってみる?」 そういうと宮本さんは晶を連れて階段へと向かう 刺激を与えないようにとそっと近づき、階段を覗き見ると、奏斗は階段途中で俯き座っていた 奏斗の体は小刻みに震えていて、守るように自身で肩を抱いていた その様子を見た宮本さんは、ゆっくり奏斗に近づくと、優しく語りかけるように声をかけた 「どうしたの奏斗くん。喉渇いた?」 「…」 「宮本さん、それ…」 晶は奏斗が手に握っている何かを見つけ指差すと、宮本さんはそちらに目をうつす 震える彼の手には強く握りすぎてくしゃくしゃになった、あの時の手紙が握られていた 奏斗は俯いたまま、それを宮本さんに突き出す 驚いた宮本さんは一瞬固まったが、ハッとしたように手紙を受け取った 「…これを渡すために出てきてくれたんだね。ありがとう」 「……あ…」 宮本さんは奏斗に例を言うと、奏斗は顔を持ち上げ何か言おうとしていたが、何度か口を開閉させて結局また俯いてしまった 久しぶりに見た奏斗の姿は、睡眠不足のせいか正気のない表情と、以前にも増して痩せ細った体に心を痛めた 奏斗にとって部屋から階段までの距離でさえ相当勇気が必要だっただろうに、わざわざ手紙を宮本さんに渡そうと部屋から出てきてくれたのだから、こうなる前から宮本さんは信頼されていたのだろう 震える奏斗を慰めるように背中に手を回す宮本さんを見て、心臓の奥で何か黒い感情が渦巻いた 「…もう、部屋に戻した方がいいでしょう。兄さん、行くよ」 「そうだね。奏斗くん、よく頑張ったね」 「…ん…」 晶は奏斗の手を引き、階段を登る 前までは触れることすら許されなかったので、拒否されると思ったが意外にも奏斗は晶の手を受け入れた いや、きっと受け入れたわけではないのだろう 奏斗の視線は常に終点が合わず、意識は不安定なため、おそらく手を引いている人物さえも理解しているか危ういところだ 誰かもわからないのに嫌がるも何もないのだ その事実に寂しいような、嬉しいような言いようのない気持ちになった 奏斗を部屋に入れたところで宮本さんは時間が来たからと、家を出て行ったが、おそらく空気を読んでくれたのだと思う 宮本さんがいなくなり、久しぶりに2人きりという状況になった 奏斗の部屋は悲惨な状態だった 部屋中には破かれた大量の紙切れが散乱し、物は倒れ、カーテンは閉めっぱなしだから陽の光ひとつも入らず薄暗い 晶は紙切れの一つを手にとって見ると、それは奏斗の部屋に忍び込んだ時に見たウエディングドレスのデザイン案の切れ端だった 周りの紙切れにも同じような物ばかりで、隅にはボロボロになったスケッチブックの表紙が放置してあった それを見てまた締め付けられるように息を詰める せっかくたくさん描いたのに、とても綺麗だったのに、奏斗は全て諦めてしまったのだろうか ベッドに座った奏斗はぼーっと床を見つめていて、晶は奏斗と目線を合わせるためにしゃがみ込んで見上げる形になった 「…兄さん…」 「………」 「俺さ、兄さんのためならなんでもするから…嫌なことももうしないし、欲しいものがあれば全部あげるから」 晶は奏斗の手を取ってギュッと強く握る 冷たい手を自身の手で温めるように、大事な大事な宝物を触るように 「もう、もうどこにも、行かないでほしい…」 晶の声は酷く弱々しいもので、部屋がここまで静かじゃなければ聞き取れないほどだっただろう 晶は泣きそうになるのを我慢して、まるで子供が戯れるように奏斗の膝に顔を埋めたのだった

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