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第53話

「今日は自分でできる?」 「………」 服を脱がせ浴室に入れるが、奏斗は立ち尽くしたまま動かない この家に来る前は風呂は自分で入れていたのに、最近はこのように何もしないことが多くなった そのつど晶は、奏斗をバスチェアに座らせると、後ろから奏斗の髪や体を洗うようになった 「時間あるし、今日はお湯沸かそうか」 奏斗が万が一溺れてしまわないよう浴槽に水を溜めるのを避けていたが、今日は自分が側で見ていれば大丈夫だと思い、ボタンを押した さすがの高級マンションの風呂の機能は優秀で、奏斗を洗っている間の時間でお湯を沸かしてくれるからありがたい 奏斗の目に入らないようゆっくりお湯で泡を流してやってから、たっぷり沸いたお湯につからせた 「…んぅ…」 「…気持ちい?」 時間がなく、いつもシャワーだけだったので、久しぶりの湯船に奏斗は小さな吐息を漏らした 表情もいつもより緩くなってる気がする 浴室は静かで心地がいいのか、奏斗は目を閉じて縁に頭を預かる 上を向いたおかげで、顔が明かりに照らされよく見える 目の下の隈もより一層濃く見えてしまった それだけじゃなく、湯の下で奏斗の体の傷はより浮き彫りになる それでも前よりだいぶ薄れてきたと思える 同時に優也がつけたキスマも、もう消えかかっていた 「…ごめん、兄さん…」 「…?」 「俺なんかで、ごめん…」 自分でも何を言っているのかわからなかった 奏斗の隈を優しく撫でると、奏斗は迷惑そうに顔をそらす 今の奏斗の状況だって、自分がもっと早く事態に気づいていれば、こんなことにはならなかっただろうに。 こんなに苦しんでいる奏斗に、何もしてあげられない自分が情けなく思えた そんなことを考え落ち込んでいる晶を見て、奏斗が急に湯船から起き上がった 「…ぅ、あ…」 「兄さん?もう出るの?」 俯く晶を見て何を思ったのか、奏斗は浴槽の縁に手をつくと、床に膝をついて座っていた晶を上から覗き込むように立ち上がった 見下ろす奏斗と自然と目が合う 奏斗の濡れた髪から滴る水が、晶の顔を濡らした 奏斗は何か言おうとしていた 口を開閉し、あ、とかう、とか声を漏らしながら、何かを伝えようとしていた 「何、どうしたの?」 その声を聞き取りたいと思った晶は、奏斗の口元に耳を寄せる その時、奏斗が縁についていた手が、ツルっと滑った 奏斗は支えを失いふらりとよろける 浴槽から身を乗り出すような大勢だったため、このままでは床に激突してしまうだろう 「っ!?」 「ぁぶな…っ!」 バシャンと水が揺れる音と共に、ゴンッと鈍い音が浴室に響いた 「い"っ、た…」 痛みに声を出したのは奏斗ではなく晶の方だった あまりの急な出来事に咄嗟に奏斗を庇ったせいで、晶もバランスを崩しそのまま床に倒れてしまった 鈍い音の正体はその際、水栓に晶の頭をぶつけてしまったためだ 「い、っ、にいさん、大丈夫?」 「…っ」 晶は頭を抑えてしばし痛みに悶えたが、奏斗の無事を確認するため頭を上げると、そこには目を丸くしていた奏斗と目が合った いつも重そうにしていた瞼が開いていおり、そんな表情を久しぶりに見た晶は驚きで固まってしまう だがハッとして晶は奏斗の体を見る 咄嗟に奏斗を抱き込むように庇ったおかげで、晶がクッションとなり奏斗は怪我はしなかったようだ 安心して再び奏斗を見上げるが、どうも様子がおかしいことに気づいた 「兄さん?」 「…ひゅっ…」 晶は奏斗が目を見開いたまま動かないことを不思議に思った まるで怪物を見たようなその表情で、喉からひゅっ、ひゅっ、と空気が潰れた音がする 過呼吸だった 「兄さん、大丈夫だから…」 急にバランスを崩して怖い思いをしたせいだと思った晶は慌てて奏斗に近づくが、奏斗はそれに怯えて後ずさる 浴室の隅に這いずり、顔は真っ青にして、晶を見ていた 「…痛っ…」 奏斗は明らかに晶を見て怖がっていた その様子に違和感を覚えた晶は自分の額に触れてみると、ズキっとした痛みと共に、タラリと顔を何か滴る感覚がした 触れた指は真っ赤に染まっており、床に滴った血が目に入り、それを見てやっと、自分の額から血が出ているのだと気づいた きっと水栓に頭をぶつけた時だろう まずい、兄さんが怖がってしまう 目の前で人が死ぬところを見た奏斗にとって、血はトラウマだった それで怖がり、過呼吸を起こしたのだ 「ひゅっ、ひゅっ」 「ごめん、すぐ止めるから」 晶は慌てて額の血を洗い流そうとシャワーから水を出し、自分の服が濡れることも気にせず頭から水をかぶった 血は水に溶けてすぐに流れていったが、鏡を見るとまた新しく赤い血が滲み出て、なかなか止まってくれない その様子を浴室の隅で奏斗は怯えながら見ていた 床を伝って流れてくる赤い液体から逃げるように、端へ、端へと後ずさる 「タオル…兄さんちょっと待ってて」 これではらちがあかないと、晶は浴室外に置いてあったタオルを乱雑に額に当てると、ゴシゴシと拭った それにより血は幾分か止まってくれたが、またすぐ出てきそうなほどパックリと切れていたので、滲み出すその前に奏斗にタオルを被せ目を隠してやった そうすれば奏斗の過呼吸は次第に落ち着き、震えも治ってくる 奏斗は裸のままなので、体を冷やしてしまう また湯船に浸からせるのは危険なため、風呂は諦めて晶は奏斗の体を拭き、服を着せた その間もポタポタと床に血が滴ってきたが、何より兄を優先している晶にとってそんなこと気にしていられなかった タオルを被った奏斗も、自分で目を隠すように掴んでいたので、それ以上過呼吸になることはなかった 温まるために風呂に入ったのに、まさかこんなことになるなんて想像してなかった そう言えば、あの時奏斗は何を言おうとしたのだろう 聞いてみたいが、奏斗はとうに疲れきっていたし、そうでなくとも答えてくれるわけがないから、諦めた晶はとりあえず奏斗を部屋に連れて行った 奏斗の髪を乾かすのは後にして、まずは部屋の掃除をしなければならない 慌てていたため、落ちた水滴や血が床を濡らしていた それらを全て拭き終わってから、自分の額の手当を始める 鏡でよく見ると案外傷が深かったらしく、絆創膏では小さいため、軟膏を塗ってからガーゼと医療用のテープで固定して、とりあえずの処置をした 「兄さん、髪乾かすよ」 それらが終わり、奏斗の部屋にドライヤーを待って入ると、奏斗はまだ部屋の隅でじっと座っていた よほど怖かったのだろう 晶の額の処置された傷を見て、安堵したような顔をする それから奏斗を椅子に座らせ髪にドライヤーを当てる 温かい風が気持ちいいのか、そのうちコクっと頭を揺らし始めた 「もう少しで終わるから」 「…ん…」 奏斗の髪は癖があるのに手を入れても絡まない不思議な感覚で、触っていて心地いい 本当はすでに終わっているのに、ブラッシングするフリをして何度も頭を撫でたことに、奏斗は気づいていないだろう 「はい、終わったよ。次は歯磨きしよっか」 満足した晶は、ドライヤーを机におき、次に歯ブラシを待つ すでに嫌そうな顔をする奏斗の顔を少し上に向かせると、晶は丁寧に歯を磨き始める 上、下、奥歯、磨き残しがないか確認してから、口をゆすがせるために洗面台まで手を引き連れていく おぼつかない足取りなのでゆっくり歩き、洗面台につくと口の中の水を出すよう促した 「よく出来たね、戻ろうか」 奏斗をまた部屋に連れて行こうとすると、なぜか不服そうに床に座り込んでしまった 何かと思うと、奏斗は腕を突き出してくる 「ん」 「…わかった」 これは、抱っこして連れて行けという要求だ 最近ではこのような行動が増えた 最初こそ戸惑ったが、歩くのが面倒なのだろうと考え、今ではその要求に応えている 奏斗を抱き上げると、奏斗も落ちないように晶の首に腕を回す その行為は本当に幼い子供のようで、晶はそんな奏斗が愛おしいと思った きっと曖昧な意識の中で、晶のことを優也だと錯覚しており、奏斗は今も優也に甘えていると思っているだろう 晶自身も、優也の話し方になるべく寄せるようにしていたので当然だ だからこそこんな行動をとるのだ だがそれは、やはり晶のことなど見えて いないということを意味している 最初こそ、その事実に傷ついていた でも最近ではそういうものなのだと、割り切っている むしろそうでもしないと奏斗の心が持たないだろう これからは奏斗のために生きると決めたのに、そんなことで傷ついていては、きっとこの先上手くいかない 奏斗と一緒にいるためには、自分を殺して誰かを演じるしかないのだ むしろそれで奏斗と一緒にいられるなら、喜ぶべきだろう 奏斗のためなら、自分などどうでもよく思えるほど、奏斗のことを大切に思っていたのだ

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