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第54話
「晶くん、なんかやつれてない?」
「…え」
朝、学校に行く前に宮本さんとエレベーターで会い、おもむろにそんなことを言われた
「そんなこと、ないと思います」
「その額の傷も最近できたみたいだし…本当に無理してない?」
「はい、大丈夫です」
心配する宮本さんの言葉を真っ向から否定する晶
納得のいかない様子の宮本さんは、少し考えた後、さらに踏み込むように聞いてきた
「ねぇ、今日君の部屋にお邪魔していいかな。奏斗くんのこと任せっきりだったし、久しぶりにあの子に会いたいな」
そう言って宮本さんはいつものように優しく微笑んだ
宮本さんはいい人だ
晶達に衣食住を提供してくれたし、何より2人のことをとても気にしてくれている
晶はそれをわかっている
だが晶は、奏斗が宮本さんに懐いていることをよく思っていなかった
せっかく奏斗は晶に甘えてくれるようになったのに、その立ち位置を宮本さんに取られてしまうのではと疑心していた
だから晶は
「無理です」
「どうして?」
「兄がやっと落ち着いてきてくれたので、あまり刺激したくないんです。宮本さんとはいえ、いきなり部外者が入ってきては、兄も怖がりますから」
晶はそんな理由をつけて宮本さんの意見をキッパリ断った
今までこれほど冷たくされたことのない宮本さんは、晶の態度を怪しんでいるようだった
「今すぐじゃなくてもいいよ。今週末とか、少しでいいから。それとも何か隠してるの?」
「…」
晶はいつもよりしつこい宮本さんを睨んだ
対する宮本さんも譲る気はないようだ
エレベーターが下につき、逃げるようにその場を立ち去ろうとするが、宮本さんに手を掴まれて阻止された
「ねぇ、そんなに奏斗くんと俺を会わせたくないの?」
「そういうわけでは…」
「奏斗くんが無事かどうかだけ確認させて、それだけでいいから」
「俺を疑っているんですか?俺が兄を傷つけると?」
晶は宮本さんの言葉に噛み付くように反抗した
対する宮本さんは冷静に、晶に冷たく言い放つ
「もし、そうなんだったら、俺も黙ってはいられない」
「………っ!」
「君が何もしていないんだったら、それを証明することは簡単でしょ?」
宮本さんにそう言われて晶は押し黙る
もし、これ以上反抗すれば、兄に酷いことをしていると自ら言っているようなものだ
そうなれば宮本さんもそれに応じて何か措置を取ることになる
例えば、晶から奏斗を引き離す、とか。
大丈夫、何もやましいことはない
兄を傷つけるようなことは一切していないのだ
それを彼に証明できれば、今後も奏斗と一緒にいられるはず
「…今週末、ですか」
「うん。午後に行くから、準備しておいて」
宮本さんの言葉に渋々うなずく
そんな晶に宮本さんは他にも何か言いたげだったが、言葉がうまく出てこず、結局何も言わずにその場を去った
残された晶はその場に立ち尽くし、学校に行く気も失せてしまい、しばらくしてからまたマンションを上った
その時はとにかく兄に会いたかった
……ピンポーン……
日曜日の午後、インターホンがなり玄関へ向かう
念の為にスコープで確認してから、ドアを開けた
「…どうぞ」
「お邪魔します」
晶は宮本さんを家に入れた
宮本さんはいつものように奏斗の部屋の前に立ち、挨拶しようとしたところで、奏斗の部屋に取り付けられた外側用の鍵に目を向ける
「これ…鍵?」
宮本さんは訝しげに晶に聞いてきた
晶は多少言いづらそうに俯きながらも答えた
「兄の安全のためです」
嘘は言っていない
だが晶の言葉に納得できない様子の宮本さんは何か言いた気にしながらも、そう…と一言漏らした
「コーヒーでいいですよね」
「あ、ありがとう」
晶は鍵から気を逸らそうと机の上にコーヒーを置く
宮本さんは渋々椅子に座り、晶もその向かいに座る
カチッ、カチッ、と時計の音だけが静かな部屋に響き渡る
2人の間にはどこか気まずい空気が流れており、お互いが探り合っている状態でとても居心地が悪い
早く帰って欲しいと晶は思っていたが、その沈黙を裂いたのは宮本さんの方だった
「鍵は…いつもかけてるの?」
「俺がいる間はかけてません。学校とか、買い物以外は自由にさせています」
「そっか、それならよかった…」
「…なんですか?」
宮本さんのあからさまな態度に苛立ちを覚えた晶は、不快そうに顔を歪めた
「俺が兄を監禁してるとでも思ったんですか?」
晶は半ば吐き捨てるように言うが、対する宮本さんは真剣な面持ちで、冷たく言い放った
「君なら、しそうだと」
「…っ!何も知らないくせに、あなたにとやかく言われる筋合いは…」
晶は思わず宮本さんに掴みかかる勢いで立ち上がり、言い返そうと声を荒げたそのとき
———カチャ———
「…奏斗くん」
「兄さん」
突然ドアが開く音がして2人して目をそちらに向ける
そこにはドアの隙間から奏斗が覗いており、様子を伺うようにこちらを見ていた
きっと晶の声に反応し、不安になってしまったのだろう
「ごめん兄さん…起こしちゃった?」
「ん」
さっきまで宮本さんに向けていた晶の敵意はまるで嘘のように消え、奏斗を見た途端優しげな声色に変わる
晶がドアを開けると、奏斗は床にぺたんと座った状態で、いつものように腕を前に突き出していた
抱っこの合図だと理解した晶は、奏斗を抱き上げると、すかさず奏斗はリビングのソファを指さした
あそこに行きたいと言うことだろう
晶は奏斗をソファに連れて行きゆっくり降ろすと、奏斗は寝転がり置いてあったクッションに顔を埋めた
「………」
宮本さんはその様子を黙って見ていた
いや、言葉を失った、という表現の方が合っているだろう
目の前には、子供のような振る舞いをし、母親に甘えるように義弟に抱っこを要求する奏斗の姿があった
宮本さんはこうなる前の彼を知っていた
本屋で出会う彼はとても警戒心が強く、誰にも隙を見せない強さがあった
その分、我慢をしていることくらい容易に想像できたが、彼は決して誰かに頼ったり弱音を吐いたりしなかった
そんな彼が晶に甘えている光景を見て、驚くなと言う方がおかしいだろう
まさかこんな短期間にここまで変わっているなんて、誰が想像できただろうか
「奏斗くんの食事はどうしてる?」
「だから、心配しなくてもちゃんと与えてます」
「そうじゃなくて…自力で食べれてるの?」
宮本さんに問われイライラしたように答える晶だったが、次に出てきた言葉の意図が取れず首を傾げた
「お風呂は1人で入れてる?トイレは?」
「…最近は俺がやってます。トイレは1人で行けるけど」
晶の言葉に宮本さんは確信したように呟いた
「幼児退行か…」
「なんですか、それ」
「そのまんまだよ、子供返り。急に行動が幼くなったり、甘えてきたりするの」
「ああ、なるほど。それで兄は…」
晶はソファに寝転がる奏斗に目を向ける
奏斗は午後の暖かい日差しで日向ぼっこをしており、一見こちらのことなど気にしてなさそうだが、薄く開いた目は、確実に晶を捉えていた
だが晶と目が合うとプイッと逸らされてしまう
言われてみればそんな行動さえもどこか幼稚で、子供返りと聞いても驚くどころか妙に納得してしまった
むしろそんなことを気にして頭を抱える宮本さんを、晶は理解できなかった
「そうか…参ったな、これからどうしようか」
「それってそんなに悪いことですかね。兄は別に甘えてるだけですし、暴れたりしたこともないので」
「問題は、奏斗くんじゃない。それを受け入れている君が問題なんだ」
「…どういうことですか?」
晶は宮本さんの言葉に眉をひそめた
奏斗の心に刻まれた傷は、想像もできないほど深いものだろう
だからこそ今は休息が必要だ
晶はそう思うのに、宮本さんはそうではないのだろうか
「やっぱり奏斗くんは俺が預かるよ。君1人に頼みっぱなしも申し訳ないし」
「いえ、必要ありません。兄の面倒は俺だけで充分です」
「でも晶くんはきっと、奏斗くんがこのままで良いと思ってるでしょ?」
「…っ!」
図星だった晶は、その言葉に黙り込む
宮本さんは奏斗の事を考えて、社会復帰が出来ることを望んでいる
「幼児退行を治すには、甘やかすだけじゃダメなんだ。ちゃんと躾けて、覚えさせて自分でやらせなきゃいけない。でも晶くんはそうはしないでしょ?なんでもやってあげて、欲しいものは全部あげる。それじゃあ、いつまでもよくならない」
「それは…」
「むしろ晶くんは奏斗くんに自立して欲しくない。ずっと頼って欲しい。そう思ってるんでしょ?」
「…」
宮本さんの言葉は淡々と紡がれて、でも核心をつくように晶の心を暴いてくる
宮本さんの言いたいことはわかる
でもそれは以前の奏斗に戻ると言うことを意味していた
宮本さんは虐待を受け、愛情を与えられず、必死に苦痛に耐える日常にいた奏斗に、戻って欲しいのだろうか
晶はそうは思わない
以前の奏斗が、宮本さんにどう接していたか晶は知らない
それでも以前の奏斗は、誰がどう見ても苦しんでいた
それが今ではどうだ
奏斗は過去のことが嘘のように毎日穏やかに過ごしているのだ
おとなしく、素直で可愛い
何を悩むことがあるのだろう
奏斗は確実に、今が1番幸せなのだ
身の回りは晶に任せて、嫌なことがあれば投げ出してしまえばいい
それの何が悪いと言うのか
「晶くん、カウンセリング受けてみない?」
「俺がですか?」
黙りこくった晶に、宮本さんはそんなことを言った
「君は、奏斗くんに依存してる。俺知ってるから。奏斗くんを気にして、学校に行くのもままならなくなってるってこと」
「…」
「気持ちはわかるけど、このままじゃダメなんだ。奏斗くんのためにも、カウンセリングを受けるべきだ」
宮本さんは静かにそう言うが、対して晶の内心は黒く重い感情が渦巻いていた
兄ではなく俺がカウンセリング?
冗談じゃない
宮本さんの言い分ももちろん理解できる
でも同じように、晶も奏斗のことをちゃんと考えてる
自分が兄に依存してることなんてとっくに気づいていた
だが、今やっていることは決して自分の為だけではない
何も間違えていないはずだ
それなのにこの人は、真っ向から否定するのか
兄だって無理に社会復帰させられるなんて望んでいない、望むはずがない
俺以外は必要ない、俺がいれば充分だ
奏斗だってそう思っているはず
それなのにこの人は…!
「俺だって…俺だって、奏斗の為を思ってるんだ!あんたは知らないんだ、奏斗が今までどんな思いをしてきたか…今更ぽっと出のあなたにそんなこと言われる筋合いはないっ!」
「落ち着いて晶くん。別に君を責めているわけじゃ…」
「違う、あんたは奏斗を取られて嫉妬してるんだ。あんたに懐いていた奏斗が、俺を頼ってるのが気に入らないんだろ!?」
「そうじゃない!とにかく話を…」
ガタッと椅子から立ち上がり、力任せに宮本さんの胸ぐらを掴み上げる
宮本さんは椅子に押さえつけられ、晶を見上げるような体制で掴まれ、首が締まり苦しげに顔を歪めた
それでも晶を説得しようと、なんとか声を振り絞るが、そんなことも関係なしに、更に強く胸ぐらを締めた
「何も知らない癖に…!」
「…ぅぐっ」
宮本さんは必死に晶の腕を外そうとするが、晶の力は強く、大人でも対抗できないほどだった
晶は激昂し、どう見ても正気じゃない
宮本さんもここまでの豹変っぷりに驚き、対応に遅れてしまった
不安定な椅子はバランスを崩し、宮本さんもろとも床に倒れる
それでも晶は胸ぐらを離そうとはせず、逃がさない、といったように宮本さんに跨り動きを封じた
まずいかもしれない
宮本さんは晶が振りかぶった拳を見て、今更ながらにそう思った
痛みを覚悟しギュッと目を瞑った
だが、いつまでたっても痛みが来ない
不思議に思い恐る恐る目を開ける
そこには、いつのまにかソファから立ち上がり、晶に後ろから抱きつく奏斗の姿があった
「はっ、はっ、兄さん…」
晶は奏斗の存在を知って、まるで我に帰ったように空で止まった拳をゆっくり下ろした
奏斗の体は震えていて、それでも晶を宮本さんから引き離そうとしていた
「ごめん、ごめん兄さん、ごめんなさい」
晶は奏斗に向き直り抱きしめる
奏斗は抱きしめられて、少し苦しそうに眉を顰めたが、晶から逃げようとはしなかった
そんな2人を見て宮本さんは体制を整え立ち上がる
奏斗に気を取られている今なら晶を取り押さえることができる
でもそうしなかったのは、奏斗を抱きしめる晶の背中がとても小さく見えてしまったからだ
晶は奏斗をまるで宝物のように、大事に大事に抱え込む
宮本さんから守るように、必死に。
「お願いします。俺から、兄を奪わないで」
「…晶くん」
「お願いします…もう、俺には兄さんしかいないのに…」
「…」
正気じゃない
義理の兄に、これほどまで執着しているなどあり得ない、止めた方がいい
そう思うのに宮本さんは動けずにいた
おかしな話だが、宮本さんは今まで晶が子供だということを忘れてしまっていた
晶は大丈夫だと一方的に決めつけ、彼自身を見ようとしていなかったのだ
寄り添い合う2人が不憫に見えて仕方がない
どうにかしたいのに、どうしようもできない自分を情けなく思った
そして気づけば、宮本さんは逃げるようにその場を去っていた
広い部屋には2人だけが残されて、再び静寂が訪れた
「ん…ん…」
危機が去ったのを知った奏斗は、弱い力ながらも晶の肩を押して離れようとするが、晶の抱きしめる力はさらに強くしめられた
「お願い、もう少し、このまま…」
晶はそう言うと、奏斗を押し倒し、2人して床に寝そべった
晶は奏斗を離そうとはせず、奏斗の胸元に顔を埋めていた
窓から差し込む暖かな光が2人を包みこむ
それはとても心地よくて、できるならいつまでもこのままがいいと思えるほどだった
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