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最終話

「くれぐれも体調管理に気をつけて下さいね」 「はい、ありがとうございました」 晶は最後に看護師に挨拶をしてから病院を出た 結局、あの後熱がぶり返してもう1泊したので計2泊した それほど重症だとは知らなかったが、今後の食生活にも気を使わなければ、と晶は思った 「準備できた?」 「はい」 宮本が傍までやってきて、そう聞いてくる 準備も何も、緊急だったため当然持ち帰るものもない 宮本と共に車に向かう 助手席に乗ろうと思ったが、過去のことを思い出してしまい、結局後部座席に乗った 自分も気づかないうちにかなり嫌な思い出となっていたのだろう こういう時だけ、自分も事故の当事者なんだなと実感する 「いい?今日からはちゃんとご飯食べて、しっかり寝るんだよ」 「はい」 宮本に小言を言われながらも、車は帰路を辿る 毎日一緒にいた奏斗と初めて離れて過ごした日なので、正直気が気でない これから宮本が奏斗と過ごすのを許してくれるかわからないが、それとは別に、奏斗に拒否されないかが心配だった 宮本と1日過ごして、やはりそちらの方が居心地がいいと思われるのが1番辛い 会いたい気持ちと、嫌われたくない気持ちが相まって、晶の心は複雑だった 宮本の続く小言に相槌しながらも、流れていく窓の外を遠い目で見ていた 「しばらく料理禁止。作り置きあるからついでに持っていって」 「ありがとうございます」 宮本の部屋に上がる 彼の部屋は良くも悪くも無機質で、本当に住んでいるのか疑うほど物がない 彼曰く、前に住んでいたところには物がたくさんあったが、引っ越す際に必要のない物は全て捨てたと言っていた 今あるのは食事用のテーブルだけ。テレビすらない だから物影がない場所なら、すぐに奏斗を見つけられそうだが、リビングには姿はなかった どこか他の部屋か、それとも風呂場? 「兄はどこに?」 「ああ、奏斗くんなら君の部屋にいるよ」 「お、俺の?どうして…」 「さあ、帰りたがってたから帰したけど」 さも当たり前のように宮本にそう言われて晶は驚いた 宮本が奏斗の面倒を見てくれていると思ったのに、本人はこの部屋にすらいないのだ それこそ、宮本は晶と奏斗が一緒にいることをよく思っていないため、むしろ積極的に帰すまいとするのではと思っていたのだが、晶の反応を見て宮本の方が首を傾げていた 「ダメだったかな。そうした方があの子は安心すると思ったんだけど」 「い、いえ…宮本さんは、その、いいんですか?」 「何が?」 「何がって…てっきり兄と俺を引き離すと思ってたので…」 これまで何度も2人を離そうとしていた宮本にとってこれほどのチャンスはないだろう それなのにそんな簡単に兄を晶の元へ戻してもいいのだろうか 幼児退行だの、将来だの気にする人だったのに、今の宮本は晶の考えに対して肯定的に感じる 唐突な態度の急変具合に晶は困惑を隠せない 晶の言わんとしていることを理解したのか、宮本は微妙な面持ちながらも、晶に説明するように語り始めた 「俺なりに考えたんだ。君達の最善はなんなのか」 宮本は晶をソファに座らせると、コーヒーを手渡してきた コーヒーは温かく湯気が出ていた 一口飲むと、苦いと思っていたそれは、気まずさからか味なんてしない、ただのお湯のように思えた 「俺もね、昔は君みたいに考えてたよ。大切なものは取られないように、しまっておかなきゃって」 「宮本さんが?あんまり…」 「執着しないように見える?」 「…はい」 宮本に言おうとした気持ちを先に口にされて、晶は頷く 宮本はらしくないことを言っていると自分でもわかっているのか、気まずそうにコーヒーを一口啜った 「目を離した隙に消えてしまいそうで怖かった。その子は別に俺を必要としてなかったから、余計にね」 宮本は過去の記憶を懐かしむように語る 全てが喜びばかりではないはずだが、それでも宮本は愛おしそうに目を細めるのだ そして、記憶を見ていた瞳は、不意にフッと晶に向けられる タレ目がちの優しい目に見つめられ、晶は一瞬、全てを見透かされたようでどきりとした 「だから、君の気持ちはすごくわかる。それなのに俺は自分を棚に上げて君を否定してしまった…あの時、怒鳴ったりしてごめんね」 「あ、いえ…」 晶はやるせなさに目線を下げる 宮本さんに悪いことなんて一つもないのに、こんな真正面から謝られしまってはもう言い訳もできない 謝りたい でも、声が出ない 晶はわなわなと口を震わすが、それでも言いたい言葉は言えなかった 宮本はそんな晶を慰めるように、頭をぐしゃぐしゃと撫でられる 驚き、宮本を見ると、柔らかな瞳と目が合った 真っ直ぐな黒目が晶をしっかり捉えて離さない 気づけば晶の口からは言葉が紡がれていた 「…俺、行きます…精神科。学校にも、ちゃんと行きます」 「そっか…でも、無理しなくていいから。何かあっても、遠慮なく頼って欲しい」 宮本はコーヒーを机に置くと、真剣に晶を見て言った 晶はまるで絆されるように、今までの緊張がスッとなくなった 今まで晶は宮本を信用しきれていなかった 向けられる善意にも爪を立てて、彼を何度も困らせた でも、今はそうは思わない 宮本の言葉はまったく裏表のない、純粋な優しさが伺えた なぜ、気づかなかったのだろう 彼の優しさは底知れず、それは晶と奏斗、2人に平等に分け与えられていた 宮本の大切には、自分も含まれるのだと。 そう気づいた途端、嬉しくて仕方なかった 晶の口元は自然にほころんでいた 「おせっかいですね。本当に」 「ははっ、よく言われるよ」 苦笑いする宮本に合わせて、晶ももう一口コーヒーを啜る さっきまで味のしなかったはずのコーヒーはしっかりと苦かった。 子供の舌には少し強い苦味と、深みのある香りが鼻を通って、とても心地よかった 「…ただいま…」 2日ぶりに家へ帰ったが、そこはいつもと変わらずで安心した 晶は靴を脱ぐと、とりあえず奏斗の姿を探した 「…ただいま、奏斗」 「ん」 奏斗はリビングのソファで寝転び日向ぼっこをしていた いたっていつも通りの奏斗を見て晶は安心する 奏斗も反応は薄いが、短い返事と共に顔を上げ晶を見た その表情はむすっと不機嫌そうで、まるで留守番をさせられた猫のように拗ねた様子だった 晶はそんな奏斗に近づくと、優しく頭を撫でた 奏斗はいつもなら手を振り払うその行為も、今日だけは許してくれるらしい 2日とはいえ、1人きりは寂しかったはずだ 心細かっただろう 晶はそんな気持ちを埋め合わせるように、存分に頭を撫で続けた 柔らかな癖毛が指を抜けていく感覚が心地良い あまりの長さに、痺れを切らした奏斗に避けられてしまったのは言うまでもないが 家の中は綺麗に掃除されていた おそらく宮本がやってくれたのだろう ついでに、奏斗の部屋についていた鍵と、玄関の鍵も綺麗さっぱり無くなっていた 奏斗と一緒にいることを許してくれはしたが、宮本もそこだけは譲れなかったのだろう だが、今になっては特に必要のないものだ 現に鍵が無くとも奏斗はここにいるのだから 夕飯は宮本の作り置きを食べた 退院直後というのもあり、体に良さそうなバランスのいい食事を用意してくれたようだ 胃にも優しそうだし、なりより食べやすい 栄養失調の俺にはちょうどよかった もちろん奏斗の分も用意してあり、それらを皿に移して奏斗に食べさせる 奏斗の食事にも気を使われており、宮本の優しさが見てわかる スプーンですくいいつも通り奏斗に食べさせてやった 「んっごほっ、けほっ…」 「あっ、大丈夫?今飲み物持ってくるから」 しばらく食べさせていたが、気管に入ったのか奏斗が少々むせてしまった 晶は慌てて椅子を立ち、コップに飲み物をたっぷり注いで戻った リビングに戻ると、奏斗の咳はすでに治っていた ホッとして奏斗に近づくが、晶はその光景に目を見張った 晶がその場を離れた間に、奏斗は自分の手でスプーンを握っていた そして自ら口に運ぼうとしていたのだ いたって普通のことだろう だが、奏斗は今まで自分から食事を食べようとしなかった 必ず晶がやらないと食べなかった それが今、奏斗は自分で食器を持ち、食べようとしているのだ 前より明らかに成長している それに気づいた瞬間、晶は慌ててスプーンを待つ奏斗の手を取った 奏斗は少しばかり目を見開いて晶を見る まるで邪魔するな、と言いたげな目だったが、晶の頭の中はそれどころではなかった 晶が食べさせなければ 奏斗に世話が必要じゃなくなったら、晶の存在意義はどこにあると言うのだ 頭の中でぐるぐると回る感情が、晶をより焦らせる 奏斗の成長こそ、晶の無意味に繋がってしまう 必要とされなければ。意味を作らなくては。 『奏斗くんに自立して欲しくない。ずっと頼って欲しい。そう思ってるんでしょ?』 過去に宮本に言われた言葉が、晶の頭に蘇る ああ、宮本さん。あなたの言う通りだ さっき話したばかりなのに、覚悟を決めた直後なのに。 晶はすでに奏斗を理由に自分のわがままの言い訳を考えている なんて自己中心的で、醜いのだろう 『無理しなくていいから。何かあっても、遠慮なく頼って欲しい』 黒い感情の中で、宮本の言葉を思い出す あの人の澄んだ瞳は、どこまでも真っ直ぐだった そうだ、変わらなければ もう決めたのだ。俺の人生は兄のために使うのだと 何があっても、優先するのは奏斗の気持ちなのだと。 晶はそっと、奏斗から手を離した きょとんとした顔で晶を見つめていたが、手を離されると、何事もなかったように奏斗は食事を再開する そんな奏斗を晶は複雑な気持ちで見つめていた 「…俺、兄さんのために頑張るよ…」 そんな晶の言葉にも反応せず、奏斗は変わらずスプーンを口に運んでいた 奏斗にとっては、本当にどうでもいいことなのだろう それでも晶は、奏斗の頭を撫でた やはり奏斗の癖毛は、指に絡まってもするりと抜けていく、不思議な感覚だ 今が何よりも、心落ち着く時間だった

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