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後日談
今日は一際雨が強かった
傘など意味もない横殴りの雨と、水溜りを踏んだ車の飛沫に、何度も足元を濡らされそうになった
帰ったらすぐに風呂に入りたい
そう思い足早に帰路を辿っていると、その場に相応しくない可愛らしい声が聞こえてきた
「にゃー…」
思わず足を止める
こんな雨の中、猫がいるわけない
きっと聞き間違えただけだと、考えながらも鳴き声がした方に目を向けると、嫌な予感が的中してしまった
そこには痩せ細った猫が、よたよたと道の端を歩いていた
見ると首輪は着いていないのでおそらく野良だろうか
「っシャアッ!」
近づくと背を丸めて威嚇してきたため、数分ほど見守っていたが、びしょびしょに濡れ、水たまりにハマり、見ているこっちも苦しくなる
我慢できなくなり、排水溝に足を引っ掛けたところで思わず抱き上げた
「ウゥゥウっ…」
敵だと思われたのか、腕の中で小さく威嚇するそれは、あまりにも冷たい
早くしなければ
晶は思わず走り出した
「ただいま…」
慌てていたせいで、服も靴もびちゃびちゃだ
とにかく早く温めてやろうと、すっかり大人しくなった猫を連れ風呂に直行した
「よしよし、大丈夫だよ」
「シャアアッ!」
泥水で汚れた体を、熱くないようにぬるま湯で洗う
猫はまだ怯えているのか、水をかけられ一層大きく鳴いた
だが鳴くだけで攻撃はしてこない
きっとそれほど弱ってしまっているのだろう
後で必要な物を買いに行かないと、と考えていれば、小さな体はすぐに洗い終わった
風呂から出てふわふわのタオルで拭いてやると不安気ながらも、猫は気持ちよさそうに目を細めた
自分は濡れたままだと言うのに、晶は猫が気になって仕方ない
湯たんぽと一緒に猫をタオルに包む
猫は疲れたのか、湯たんぽの暖かさについに眠ってしまった
「可愛い…」
小さな生き物には、どうしてこうも心揺さぶられるのだろう
とにかくこれでしばらくは大丈夫だろうと、猫に必要な物をスマホで調べていた
その時は、後ろに佇む人影に気づいていなかった
「ねこ?」
「…あ、ただいま…奏斗」
声がして振り向くと、そこには晶は見下ろす奏斗の姿があった
奏斗の視線は晶の抱かれた猫に向いており、不機嫌そうに眉を顰めていた
「どうすんの」
「…え?」
「そいつ、飼うの」
「あ、えっと…」
奏斗は猫を指差した
晶は少し迷ったが、この猫をまた外に戻す気にもなれなかった
「貰い手を探すよ…見つからなかったら、飼うしかない、かな」
どうしてだろう
奏斗は別に動物は嫌いではないはずなのに、何故こんなにも嫌そうにするのだろうか
まるで叱られるのを恐れるように、おずおずと言うと、奏斗はやはりいい顔はしなかった
「俺がいるのに?」
「…え」
そう言われて晶はドキリとしたが、少し考えて首を振る
いやいや、奏斗はそういう意味で言ったわけではない
晶達はあれから社会人になり、晶は働き始めたが、奏斗は相変わらず部屋に引きこもっている
そのため生活費などは全て晶が負担している
子猫1匹増えたところで、別に困ることなどないが、奏斗は子猫の存在が自分に影響することを懸念しているのだろう
世話をするやつが増えたら面倒ではないか、と、そう言う意味で言ったのだ
「心配しなくても、世話は俺がするから。ね、まだ震えてるし、可哀想なんだ」
「…はぁ…」
晶にそこまで言われてしまうと、断りづらくなったのか、奏斗はため息を吐きながらその場を離れていった
否定されず安堵した晶は再びスマホの画面に視線を移す
キャットフードと、その他もろもろを買いに行かなければならない
そこらにあった空の段ボールの中に簡易的なベッドを作って猫を寝かす
1匹にするのは少し不安だが、すぐに帰ってくればいいと、晶は一旦買い出しに向かった
「えっと…これと、これか」
生き物を飼うことは初めてなので、店員にオススメを聞きながら商品を選んでいく
今日が金曜日でよかった
明日は休日だから動物病院にも連れて行かなければ
そんなことを考えていれば、あっという間に家につく
猫を1匹にしてしまったため何かあったらどうしようと不安ながらに帰宅する
すぐに向かうのはもちろん猫の元
段ボールを覗くと、大人しくすやすやと眠っているようで安心した
すぐさま買ってきた猫用品を部屋に並べていく
物音で猫が起きないようにそっと置いた
組み立てに苦戦しながらも、なんとかケージを立てることができた
奏斗に迷惑をかけないためにケージは晶の寝室においた
ついでに猫のエサと水も用意できたが、猫はまだ起きない
今は無理に起こそうとはせず、寝かしておいてやろう
猫をタオルごとケージに移した晶は、自分がびしょ濡れなままなことに気づき、やっと風呂に入った
「…眠れない?」
晶が風呂から出る頃には日付はすでに変わっていた
だと言うのに、奏斗はまだ寝ていなかったようで、いつもの定位置であるソファで本を読んでいた
「よかったらホットミルクでも作ろうか?」
「…いる」
「ハチミツは?」
「いる」
短い返事を聞いて晶はキッチンに向かう
人間用にミルクを2人分と、猫用のミルクを人肌程度に温めた物を用意した
「どうぞ」
「ん」
先に奏斗の分のホットミルクを渡すと、今度は猫用ミルクを寝室に持って行った
ミルクのついでに猫の様子を見に行こう
ケージには猫を安心させるためにタオルがかかっている
静かにめくると、先程まで寝ていた猫は目を覚まし、晶をじっと見ていた
エサ入れを見ると綺麗に空っぽになっていたので、晶はとりあえずホッとした
「フゥゥゥ…」
「ご飯、食べたんだね。ミルクは飲むかな」
優しく語りかけ、ケージを開けると、ゆっくりミルクを中にいれた
猫はその様子をケージの隅で見ていたが、晶が手を引き抜こうとした瞬間
「フシャアッ!」
「っ!痛っ」
猫は晶の手に向かってパンチした
肉球だけならよかったが、野良猫の爪は思いのほか鋭く、晶の皮膚を引き裂いた
驚いた晶は思わず声を出してしまった
その声に怯えたのか、猫は再びケージの隅に戻って行った
こんなよくわからないところにいきなり連れて来られたら無理もない
晶は優しくケージを閉じてタオルをかけた
今日はそっとしておこう
きっと同じ空間にいるだけで警戒させてしまうだろうから、今日は寝室では寝られなさそうだ
どうしたものか、と悩みながら部屋から出ると、ミルクを飲んでいた奏斗がギョッとした様子で晶を見てきた
「…手…」
「ああ、怖がらせちゃって…」
奏斗につられて晶も腕を見ると、猫の爪に合わせて3本線が、膝から手首あたりまでぱっくりと裂かれていた
傷口から血が滲み、手から滴り床を汚してしまうと思った晶は、慌ててキッチンの水道へ走った
「っ、しみるな…」
1度傷口を水で流す
赤い液体が、無色の水に混じって流れていった
後は消毒してガーゼを巻けば終わりだが、これに晶は苦戦した
消毒中も、ガーゼを巻こうとしている最中も、すぐに血が滲んで溢れてしまうのだ
片手では上手くできないのも相まって、もたもたしているとより一層血だらけになる
その様子は奏斗にも横目で見られていたが、ついに呆れた奏斗が晶の手からガーゼを奪い取った
「手」
「…あ、ああ、ありがとう」
言われるがまま手を差し出すと、奏斗は器用な手つきでガーゼを巻いていく
最後にテープで止めて、あっという間に処置は終わった
奏斗が晶に構うなど、珍しいこともあるんだな、とぼんやり思った
いつもは適当にあしらわれて、無視されるのがオチだから、驚きと共に嬉しさを感じた
勝手に1人でほおけていたが、奏斗がソファに戻ったところで我に帰る
「ミルク、冷めちゃったよな。温め直すよ」
「いい」
奏斗が待つマグカップは冷め切っており、温め直した方がいいと思い、奏斗から取ろうとした
だが奏斗は断った
晶の処置された腕をチラリと見て、不機嫌そうにミルクを啜った
「このままで…いい」
「そっか、ごめんね」
晶は謝るが、奏斗はどこか納得のいかないような顔をした
晶はその理由がよくわからなかったが、奏斗も何も言ってこなかったので、気にせずソファに腰掛けた
晶が手に取ったミルクはぬるく、やはり温め直した方が良さそうだが、奏斗はもう半分以上飲んでしまったようだ
奏斗の待つマグカップの傾きが、かなり高くなっていたため、聞くのをやめた
そのまま横目に奏斗を盗み見る
奏斗は再び本に集中しており、ペラリと紙をめくるたび、小さな風で前髪がフワッと浮いた
奏斗の不眠症は今になっても変わらず続いている
誰かと一緒に寝ることで症状はだいぶ緩和されるが、奏斗は好き好んで晶とは寝てくれない
限界を迎えるとフラフラと晶の寝室に潜り込むのは、前も今もよくあることだった
時々こうしてホットミルクを飲みながら奏斗が眠くなるのを待つ
隣にいるだけでも効果はあるらしいので、次の日が休みの時は、なるべく奏斗に付き合って、晶も眠らず座って待つのだ
2人してソファの端に座るが、奏斗は本を読み、晶はパソコンをいじり仕事や猫のことを調べたりする
この2人の間に会話はない
だがこの時だけが、唯一同じ時間を過ごせるのだ
奏斗には悪いが、晶はこの時間がなんだかんだ好きだったりする
「…ねこ」
「ん?なに?」
晶のタイピング音だけが響く中で突然、奏斗が珍しく話しかけてきた
驚きながらも奏斗を見やる
奏斗は本に目を向けたまま、ボソボソと話し始めた
「ねこ、多分目、見えてない」
「えっ、本当?そんな風には見えなかったけど…」
「片目だけ。右側、反応鈍い」
全然気づかなかった
世話をした晶にはそんなことわからないのに、たったあの一瞬で奏斗は気づいたのだろうか
あるいは、晶が風呂に入っている間、気になって猫を見に行ったのか
どちらにせよ、奏斗の観察力の高さに感心した
「明日病院に連れて行くから、その時聞いてみるよ。教えてくれてありがとう」
「………」
晶はそれで会話が終わったと思い、再びパソコンに目を向けたが、しばらくするとまた奏斗の口が開いた
「…あんたも、病院行け」
「え?」
「野良は菌を持ってるから、傷口悪化する」
「…俺のこと、心配してくれてるの?」
「………」
奏斗が晶を気にかけることなんてほとんどないため、驚きのあまりそう聞いてしまったが、黙ったままの奏斗を見て、我に帰る
「ご、ごめん、そんなわけないよな…うん、ちゃんと病院行くよ」
「……もう寝る」
「あ、うん、おやすみ」
場の空気が乱れ、居心地が悪くなったためか、奏斗は本を閉じると自室へと入って行った
晶を前を横切る際、奏斗の耳が赤かったような気がするが、きっと気のせいだろう
と同時に晶の心は今までにないほど踊っていた
いつもより奏斗とお喋りができた…
嬉しい…
奏斗は無口なので、1日も会話しない日もあるくらいだが、今日は特別多く話すことができた
晶はこの機会を作ってくれた猫に感謝しなければ
この恩を返すために、明日はちゃんと病院に連れて行って、美味しいご飯を食べさせよう
1人残された空間で、晶はそんなことを考えていた
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