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二十五、泥沼
大和国に入った途端、青葉の軍勢は中津川軍との合戦となった。打ち倒しても打ち倒しても、圧倒的に頭数の多い中津川軍勢は勢いを失うこともなく、毎日のように激しい合戦が繰り広げられている。
怪我人が陣の中にもずらりと並び寝かされるようになり、疲れきった兵たちの目は暗い。
千珠の嗅覚と、忍による偵察のおかげもあり、夜襲や奇襲の被害は少ないものの、そろそろ青葉軍の勢いは限界が近かった。
そんな険悪な雰囲気の本陣で、険しい表情の光政の後ろに、いつものように千珠は控えていた。千珠の目もいつになく暗く、疲れの色が見えている。
「おい、千珠殿」
と、唯輝がそんな千珠に強い口調で迫る。
「そなたの力は、意味をなさぬのか?殿の夜のお相手だけが仕事ではなかろう!」
その発言に、光政はぴくりとも反応しなかったが、千珠の頬にはさっと朱が差す。
光政の謝罪を表向きは受け入れた唯輝であったが、収まらない苛立ちの矛先は、もっぱら千珠の方へと向いているのだ。
この数日、僧兵の呪いを退けることが能 わず、千珠は思うように力を振るえていない。唯輝は、ひたすらにそこを攻め立てる。
「向こうが対千珠用に僧兵を準備するだろうことくらい、初めから予想できた」
と、光政は静かな声でそう言った。
「しかし……!」
唯輝は大きな目を血走らせ、何やらもっと物言いたげにしていたが、千珠が珍しく口を開いたことで、皆の注目が千珠へと注がれる。
「案ずることはない。明日にはすべて片をつけてやるよ」
ゆっくりと千珠は立ち上がり、一人立ち上がって肩を怒らせていた唯輝に向かい合う。
「あまり俺に不躾なことを言わぬほうがよいぞ……」
唯輝にだけ聞こえるようにそう呟いて、千珠は本陣から出て行った。
「唯輝殿」
舜海が落ち着いた声で、怒りを滲ませ千珠を追って出て行こうとする唯輝を止めた。
「何だ?」
「あまり千珠にちょっかいを出さんほうがええで。その首、胴から離れることになりかねませぬぞ」
唯輝は舌打ちをすると、足音も喧しくその場から出て行ってしまった。
「皆も……外してくれ。今日はひどく疲れた」
「はい。ゆっくり休んでくださいよ」
気遣わしげに舜海は、そう言うと、重臣たちを追い立てながら陣を出てゆく。一人になった光政は、ごろっと横になって、半分崩れかけた社の天井を見上げた。
今夜は、人気のなくなった鄙びた神社の社にて軍議を行っていた。鎮守の森のそこここで、兵たちが座り込んだり横になったりしているのだが、皆が一様に疲れ果てているのが分かる。
皆が千珠にかけていた期待ほど、千珠は力を出せていない。
高まっていた士気は萎み始め、早々戦が終わると思っていた非兵士たちからは、不満の声が上がり始める始末。
慣れぬ戦闘への疲弊と、怪我や死への恐怖は、簡単に取り除けるものではない。
――保ち続けねばならない総大将としての顔つきを、今の俺は出来ているのだろうか……。
三津國城が懐かしかった。穏やかで、豊かな山や海に囲まれた青葉の国が。
血を見るのも、合戦にも、悲鳴や雄叫びを聞くことも、重臣たちの喚きにも、ほとほと疲れ果てた。
「光政」
ふと、千珠が姿を見せる。横になったまま見上げると、千珠は水でも浴びてきたのか、血飛沫を洗い流して白装束に身を包み、皆と同様に疲れた表情で光政を見下ろしている。
「どうした?」
「あいつを殺してやりたいよ。敵よりもあいつをな」
「さっき言われたことを、気にしているのか」
「してない」
千珠は俯いたまま、無愛想に言った。
「だが……あながち嘘ではない」
と、千珠は小さく呟いた。
光政は起き上がり、千珠をぎゅっと抱き寄せる。光政の肩口に頭をもたせかけて、千珠は言った。
「俺の身体……血の匂いがするだろ?」
「しないよ。それに、それはお互い様だろう」
「そうだな……」
「大丈夫か?今日は特に辛そうだが」
「ここの所……眠ると夢を見るんだ。人間である父を、この手で惨殺する夢を。俺が殺してきた何百という人間全部、父の顔に見えて……」
「やはり、葛藤しているのだな」
「葛藤、か。そうなのかな」
「すまない。全て俺のせいだな。お前にこんな契約を迫った俺が悪い。戦が終わったら……掟に従い、俺を殺すといい」
「ふん、そんなこと、出来るわけ無いだろ」
「俺が憎くないのか。人を殺めろと強いる俺のことが」
「憎い……か、考えたこともない。お前との契約がなかったら、俺はここにいられなかった。……一人にはなりたくない。だから、これでいいんだ」
まるで自分に言い聞かせるように、千珠は膝を抱えてそんなことを語る。光政はそんな千珠の姿を見ていることが出来ず、小さな顎を捉えて唇を塞いだ。
そのまま荒れた畳の上に千珠を横たえると、白装束を解いていく。
滑らかな陶器のような肌に、唇を、舌を這わせる。敏感に反応する幼い身体を、光政は慈しむように強く抱きしめた。
✿
翌日は、また雨だった。
先の見えない、泥濘みのような合戦だ。けぶるような雨の中、一時は有利になっていたかと思わされた場面もあったというのに、いつしか青葉軍は濁流渦巻く河へと追いやられていたのである。
「申し上げます!!河は雨で増水しております!とても渡れませぬ!!」
「何だと!?」
兵の血を吐くような声。光政は鎧を一気に重く感じ、目を固く閉じて空を仰ぐ。
「この先で千珠様が食い止めておられますが、僧兵の攻撃を受けておられるとのこと!」
「よし、俺が行く!殿は皆と河上へ向かってくれ!」
舜海は即座に手綱を引き、河下へと向かおうとした。
「待て……!」
「殿!気持ちは分かるが、あんたは大将やろ!早う河上へ進め!あいつのことは、俺の法力ならなんとかなるかもしれへん!」
「……分かった、千珠を頼んだぞ!」
光政は不安を振り切るように馬を駆り、泥塗れの軍勢を率いて河の上流へと走りはじめた。
目に浮かぶのは、涙を流しながら人間を切り裂く千珠の顔。
そこへ行ってやりたかった。千珠の力になってやりたかった。
しかし、自分は大将なのだ。ここで兵たちを引っ張ってゆかねばならぬ立場だ。
――……舜海に全てを託そう。あいつなら、きっと千珠に力を貸してくれる。
二人の無事を祈りながら、土砂降りの雨の中を突き進む。
泥を跳ね上げる馬蹄の音と、後に続く兵たちの馬の嘶きに、急かされるように。
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