65 / 341

十八、対決

 千珠が寝所に着くと、舜海の配下の兵が一人、部屋から戸板をぶち抜いて投げ出される場面に出くわした。 「!」  急ぎ部屋に飛び込むと、紗代が立ち上がり目をぎらつかせながら結界に体当たりをして、破り裂こうとしているところだった。  読経の声が高く響き渡り、魔封じの香が焚き染められている部屋の空気は流石に毒であり、千珠は思わず鼻を覆う。 『ここから出せぇぇぇ!!!』  断末魔のような怨霊の悲鳴で空気がびりびりと震えた。皆が耳を塞ぐ。 「村の供養が始まったらしくてな、最後の悪あがきを始めよってん!」  舜海が千珠を見つけてそう言った。  紗代は檻に入れられた獣のごとく、頭をかきむしりながら狭い結界の中をぐるぐると歩きまわり、呻き声を上げている。顔は土気色で、艶やかだった黒髪は観る影もなく乾き、まるで藁のようだった。 『おおおおああああ!!』  咆哮とともに再び放たれた霊気で、結界が保たず破裂する。凄まじい怨念の瘴気が部屋中に満ち、その場にいた留衣と柊が、魂を抜かれたかのようにふらついて倒れてしまった。二人とも、霊的な障害には慣れていないのだ。 「お前ら!この二人外に出せ!あと、他のやつは絶対ここに近づけるな!」  舜海は兵たちに大声でそう命じると、錫杖を構えて紗代の前に立ちはだかった。千珠も宝刀を抜いて構える。 「もうこうなったら、調伏するしかないな。こいつが外に出たら、大事や」 「始めからそうしておけばよかったものを」 「しゃーないやろ。紗代様の身体やで、あまり無茶できひんからな」 「どうする?」 「俺が悪霊を調伏する。詠唱が終わるまで、時間稼げ」 「分かった」  紗代は破れた結界から、一歩一歩、ふらつきながら外に出てきた。乾いた長い黒髪が、まるで蛇のようにゆらゆらと動き、その隙間から暗く光る眼がのぞく。 『余計なことをしてくれたな…』 「阿呆、優しさや。とっとと成仏せんかい!」 『お前……なかなかの霊力を持っているね……お前を喰えば、私の力も強くなろう!』  紗代は瞬く間に舜海に掴みかかってきた。舜海は錫杖で防御するが、あっという間に力負けして床に押し倒される。押し付けられた床板がめきめきと音を立てて裂けてゆき、凄まじい圧迫感に背骨が悲鳴を上げ、舜海は顔をしかめた。  千珠は一足でそんな紗代に斬りかかると、舜海に絡みつく髪の毛を断ち、紗代の身体を体当たりで跳ね除ける。  紗代の身体は吹っ飛び、鈍い音と共に壁に激突した。 「こいつを喰うのはこの俺だ。俺の獲物に喰いつくんじゃない」  紗代は痛みを感じる様子もなく、にたぁりと笑って立ち上がった。再び髪の毛が伸び、千珠に跳びかかる時期を窺うようにうようよと漂っている。  「こら!下手に斬りかかるな!身体は紗代様なんやぞ!」  舜海が起き上がると、千珠に向かってそう喚く。千珠はむっとした顔で、「分かってる!髪を切っただけだろうが!」と言い返した。  その隙をついて、再び紗代の髪の毛が千珠に襲いかかってきた。千珠は宝刀でそれを薙ぎ払うと、ふわりと跳んで間合いをとった。  そんなことを繰り返しながら時間を稼いでいる間に、舜海は調伏の経を唱え始める。 『黙れえええええ!!』  苦しみ紛れに紗代の放った霊気が、閉めきっていた寝所の壁をぶち破った。外に控えて結界を張っていた僧が一人吹っ飛ぶ。  大穴の空いた壁の向こうに、心配そうな表情を浮かべて庭に立つ光政の姿が見えた。変わり果てた妻の姿を見て、光政はその表情を険しくする。  紗代は、一瞬夫の姿を目にして怯んだ様子だったが、すぐにそれを好機と捉えたらしく、開いた壁の穴に向かって動いた。 「!」  千珠は紗代が光政に掴みかかる一歩手前でそれを防ぎ、紗代ととっ組み合った。 『あなたあぁぁぁ!助けてええええ!』 「光政!下がれ!!喰われるぞ!」  千珠は紗代の圧倒的な力をぎりぎりで抑えながら、光政に向かって叫んだ。しかし、あまりの光景に光政は動けずにいる。 「これは一体、どういうことだ!あれは……紗代なのか?!」 『あなたぁああああ!』 「舜海、早く!」  千珠は今にも外に飛び出しそうな紗代を、全力で抑えつけていた。斬ることのできない相手なので、まるで相撲でも取るかのように全身で抑えるしかない。  紗代は光政の強張った顔を見て、突如高笑いをし始めた。 『あっはははは!お前がこの国の棟梁だね!?お前を喰って、この国を滅ぼしてやる!!』 「させるかよ!!」  千珠が渾身の力で紗代を突き倒すと、紗代の身体は反対側の壁に激突した。  同時に舜海が経文の詠唱を終え、錫杖を天に翳した。  刹那、そこから生まれたまばゆい白い光があたり一面を覆い尽くし、紗代は目玉が零れ落ちそうになるほどに、目を見開いた。 『ぎゃあああああああ!!!!』  耳をつんざく叫び声が細く長く尾を引きながら、ゆっくりと消えてゆく。  紗代の身体は糸が切れたように、その場に崩れ落ちた。 「紗代!」  光政が駆けこんで紗代を抱き起こし、顔を覗き込む。紗代の顔色は相変わらず蒼白であったが、微かに息をしているようである。 「薬師を呼べ!」  光政は家臣たちにそう命じると、紗代を抱き立ち上がった。そして、舜海と千珠を見る。 「手間をかけさせたな。……二人とも、身体はどうもないか?」 「ああ、なんとか……」  舜海は始めの紗代からの一撃で、かなり痛手を負っているようだった。千珠は紗代と取っ組み合ったときに、あちこちに小さな切り傷を作ったくらいである。 「これでもう、呪いは消えたのだろうか?」 「まだうっすら匂いがある。お前、ちゃんと調伏したんだろうな」  千珠は鼻をひくつかせながら、舜海に訝しげな目を向けた。舜海は錫杖で身体を支えながら、「ああ、無理やりあの世へ行ってもらったで」と言った。 「なんだ…この感じ……まだ何か残っているような」  部屋の隅で、千珠に切り落とされた髪の毛の束が、ぴくりぴくりと動いた。するとそれは、まるで意思を持った黒い矢のように、まっすぐ光政に向け飛び掛って来る。 「危ない!」  先に気配を感じ取った舜海が、光政を庇って突き飛ばした瞬間、舜海の脇腹を、その髪の矢が貫いた。 「舜!!」  光政は声を上げた。千珠が跳びかかって、毛髪を宝刀で真っ二つにすると、赤黒い炎と共にそれは消えた。  光政は舜海に近寄ると、血が溢れ出す傷を強く押さえる。 「なんて無茶をするんだ!」 「い……てぇ……。殿は、無事か?」 「喋るな、すぐに薬師が来るからな」 「見せてみろ」  千珠も舜海の傍らに座り込んで、傷を調べる。針で細く貫かれたような傷は、舜海の脇腹の筋肉を貫通しており、内腑には影響がなさそうであった。  千珠は安堵しつつも、少し眉根を寄せ「呪いの傷だ。治癒には少し時間がかかりそうだな。でも死にはしないから安心しろ」と、光政に伝える。 「……そうか!」  光政は心底安心したように微笑み、舜海は苦痛に顔を歪めながらも、ちょっとだけ笑ってみせた。 「こんなもんで……死ぬわけないやろ、伊達に戦を切り抜けてきてへんねんぞ。大げさやな、殿は」  紗代は薬師たちに運ばれて別の部屋へと移され、舜海も別の部屋で治療を受けることになった。他にも、怨霊の瘴気にあてられた兵たちの手当も行われ、城の中はざわざわと人の声で騒がしくなった。  もうこの場所に、呪いの気配は無い。それを皆敏感に感じているのか、その場に漂うのは、重苦しさから解放され、すっきりと軽やかな空気であった。

ともだちにシェアしよう!