82 / 341

十一、女の手

 次の日の早朝、千珠は道場に出ていた。  昨晩は結局舜海の部屋でうとうととして一晩を過ごした。舜海は起きる様子もなく、終始いびきをかいて平和に眠っていた。  道場で木刀を素振りしてみるが、あまり速さが感じられない。試しに居合の練習に使う、太い丸太に藁を何重にも巻きつけた人形に向かい合う。普段ならば、たとえ木刀であっても、いとも容易く真っ二つにすることができる代物である。  千珠は身を低く構え、指に力を込めてぐっと木刀を握りしめると、踏み込んで人形に斬りかかった。が、剣は丸太の中程で止まってしまう。  千珠は舌打ちをすると木刀を引き抜き、もう一度横薙ぎに剣を振るった。二太刀で、ようやくその人形は二つになった。 「……はぁー」  千珠が盛大に溜息を吐いていると、戸口に人の気配がした。 「早いな。ちゃんと寝たのか?」  忍装束の留衣が立っている。千珠は首だけ振り向いた。 「ああ。ちょっとは寝た」 「剣の速さが鈍っているな。重さもないようだし」  留衣は人形を見てそう言った。 「まぁでも、普通の人間なら、木刀で何度斬ってもこれは折れないけどな」 「そんな慰めはいい。力が出ないことが、こんなにもどかしいとはな。いざって時に何も出来ないんじゃないかって、落ち着かない」 「そう焦るな。大丈夫だ、すぐに力も戻るさ」 「気軽に言うな。こんな気持……人間のお前には分からないだろう」  千珠は腹立たしげにそう言い捨てた。  言ってしまってから、留衣に八つ当たりしたことを後悔する。 「そりゃあ……そうだけど」  留衣は、小さな声で答える。 「すまん。……お前にこんな事言うなんて」 「いいよ、お前だって不安なときくらいあるよな」  千珠は留衣に歩み寄って謝ると、留衣も首を振ってそう言った。 「不安、か」  生まれ持っていた自分の力へのありがたみなど感じたことはなかったが、失ってしまうと心許なくて仕方がなかった。こんな無防備な状態で、普通に生きている人間たちが信じられない。 「夜、外に出ていたのか?」  忍装束の留衣にそう尋ねると、留衣は黒い頭巾を取って言った。 「ああ、見廻りにな。あの宇月という女の仲間がいないでもないと思ってな。結局誰もいなかった」 「そうか……」  留衣は昨日の宇月の話を千珠に話して聞かせた。 「哀れといえば哀れだな……今は素直にそう思えないが」 「あいつ、ここで使ってやれないだろうか。兄上に掛け合えば……」 「おい、どうした。お前らしくないな、そんなことを考えるなんて」  千珠に諌められると、留衣は少し俯く。 「私もそれは分かってるんだ。でも、同じ女として、男の中で働くということを知っている者同士として、どうもな」 「お前には居場所もあって、地位もある。あの女には申し訳ないが、ずいぶん境遇が違うように思えるけどな」 「ばっと見はそうだろう」  留衣は自嘲気味に微笑む。その横顔は、少し寂しそうでもあった。 「先代が退いたとき、皆が女であるにもかかわらず、私を忍頭にと推してくれた。しかしそれは、城主の妹という立場があるからだ。決して私の力を認めたわけではない。……今更だから何だというわけではないが、忍衆の奴らとの間にも、超えられない何かがあるのだ」  千珠は何も言わず、その横顔をじっと見つめていた。 「何で、私は女に生まれてしまったんだろうな。父上と母上のために、この国のために、何力になりたいと思って忍の道に入った。猛反対されたのに、己で姫らしからぬ道を進んだのに、忍衆に入っても始めは、私は姫だからと皆に敬遠された。所詮、いつもどこか中途半端なのさ」  留衣は、あちこちにたこの出来た自分の両手を、胸の前に持ち上げる。どちらかというと節くれだった長い指は、一国の姫君の手というにはあまりに無骨だった。 「あの女を見ていると、居場所を見いだせずに苦しんでいた自分を重ねてしまう。何とかしてやりたいって、思ってしまう」 「そうか……」  無意識に手が伸びて、気付くと千珠は留衣の手に触れていた。留衣はびくりとして、その手を隠そうとしたが、千珠はぎゅっと握って離さない。 「あんまり見るな。女らしい手ではない」  留衣は恥ずかしそうに少し顔を赤らめて、怒ったような表情を浮かべるが、千珠は首を振る。 「そんなことない、戦う女の、美しい手だ」  留衣の顔がさらに赤く染まる。 「……ど、どこで覚えたんだ、そんな台詞」  留衣は照れ隠しなのか、素っ気ない口調でそう言った。千珠は留衣の手を握ったまま、その目を覗き込むように見つめる。 「俺は、戦いの場に身を置いたことのないやつには興味がない。お前は強いよ。俺が言うんだから間違いない」  留衣は驚いたように千珠を見上げ、そしていつになく明るい表情で笑った。心の底から嬉しそうな笑みである。千珠も、その笑顔を見て微笑み返す。 「ははっ、お前がそう言うなら、そうなのかもな」  留衣は弾んだ声でそう言うと、ぱっと千珠の手から逃れ、軽い身のこなしで道場の入り口まで飛び退いた。 「朝餉を取りにいく。お前は?」 「俺はいい」  留衣は笑顔を残して軽い足音を立て、城の炊事場の方へ走って行った。千珠も笑みを浮かべたままそんな留衣を見送り、木刀を握り直す。  仄かに軽くなった心であったが、すぐさまそれは萎れてしまった。  千珠の鼻孔を、その場に馴染まぬ男の匂いが刺激した。

ともだちにシェアしよう!