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十二、手合わせ
「強いと言われて、あんなに喜ぶ女もおるんじゃな」
留衣と入れ替わるように、入口の戸板に寄り掛かり、懐手をした兼胤が立っていた。昨日暗闇のなかで浮かび上がって見えた大きな目は、朝日の中でもぎらりと光る。
「あの女は忍頭ですので」
千珠は短く答えると、木刀を壁掛けに戻す。何となく、人気のないところで兼胤と二人でいるのは嫌な感じがしたため、そのまま道場を出てゆくつもりだった。
しかし、兼胤は厚みのある身体からは想像もつかない速さで、千珠の行く手をさっと阻んだ。目の前に兼胤の胸ぐらがあり、浅黒く鍛えられ盛り上がった胸筋が見える。
「兄上の嫁になってくれんかと、俺も留衣殿を説得しようかと思っとったが、お前らがいい雰囲気ではないか」
兼胤はにやにやしながら千珠を見下ろしている。千珠は上目遣いに兼胤を見上げると、居心地の悪さを感じて一歩身体を引き、距離を取った。
「そんなことはありませぬ。長い付き合いなのでそう見えただけでしょう」
「ふうん……」
兼胤は腕を組み、首を少し傾げて、粘り気のある笑みをまとわりつかせるように千珠を見ている。感じが悪い奴だ、と千珠は思った。
いつもなら、こんな男に苛々することもないのに。力が出ないことで、気持ちの余裕も無くなっているらしい。
「俺はこれで」
「待てよ、ちょっと手合わせ願いたい」
千珠が兼胤の横をすり抜けようとしたとき、兼胤は千珠の上腕を掴んでそう言った。
「殿のご友人に剣は向けられない」
「そんな固いこと言わんでもええじゃろ。なぁ、いっぺん鬼の力ってやつを身で感じたいんじゃ。……華奢な割にいい筋肉じゃな」
面白がっている表情の兼胤に、千珠はむかむかと腹が立ってきた。
「……そんな理由で披露するための力じゃない」
「おおっと、怖い怖い」
兼胤は千珠の腕を掴んだまま、そう言っておどけた表情を見せた。
「じゃあ身体の手合わせはどうじゃ。俺は男でも女でも構わんけぇ」
「……は?お前、何言ってるんだ、ふざけるな」
「嫌なら、なんでこの俺の手を振りほどかんのじゃ?」
兼胤はどん、と千珠を壁に押し付けて顔を近づけてきた。千珠は、嫌悪感にぞっと肌が粟立つのを感じ、その腕をふりほどこうと身を捩る。しかし、その手は一向に外れる気配がない。
兼胤はそんな千珠を見て、目を細めて笑った。
「お前、ほんまにそんな強いんか?」
「……」
何も言い返すことができず、千珠は奥歯を噛んだ。兼胤は自分を睨みつける千珠を見下ろし、まじまじとその顔に魅入った。
女よりも滑らかな肌理の細かい白い肌、形の良い目元、赤くて少し厚みのある唇、きらきらと朝日に透ける銀色の髪。周防の国ではお目にかかったことのない美しい男だと、兼胤は思う。
「お前、戦では光政殿に抱かれたか?」
「え?」
「そらそうやろ、お前みたいなのが側におったら、当然そうなるはずじゃろ。あの立派なお方も、戦場では一人の男でしかないもんな」
「光政のことをそんな風に言うな……!」
「そう怒るな。なぁに、昨日も言うたけど、戦場 では珍しくもなかろう。しかしな、こんな平和なこのご時世じゃが、俺はお前を抱きたいぞ。きれいじゃのぅ、千珠」
兼胤の顔が千珠の身体に近づく。千珠はぞっとした。
渾身の力を振り絞って兼胤の頬を殴りつけ、腕を払って右足で分厚い胸を蹴り飛ばした。
「……近付くな!」
今の力では、兼胤を二三歩ふらつかせることしか出来なかった。千珠は愕然として、非力な己の掌を見下ろす。
兼胤が、にやりと笑う。
「ふうん、こんなもんか」
千珠は悔しさに身を震わせ、兼胤をぎっと睨みつけた。兼胤は少しばかり怯んだ表情を見せたものの、すぐにまた不敵に笑うと「まぁ、あと一週間はここにおらしてもらうんじゃ、一回くらいは手合わせ願うわ」と、ぽりぽりと殴られた頬を掻きながらそう言った。
「剣だけじゃないぞ、身体の方もな。楽しみじゃ」
「……」
兼胤の、高笑いが遠ざかってゆく。
「くそっ……!」
千珠はそう吐き捨てると、ぎゅっと力の限り拳を握り締めた。自らの爪で傷つけられた掌から、ぽたぽたと血が滴った。
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