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三、気配

 翌朝。  唐紙の外が妙に明るく感じた。寝ぼけ眼の千珠が布団から這い出して障子を開くと、そこは一面真っ白な世界が広がっていた。何もかもを白く埋め尽くす、新雪の雪化粧である。  千珠は何度も何度も瞬きをすると、その景色が夢ではないことを確認し、思わず笑みをこぼす。 「すごい……!」  そして、吐く息が白い煙となって空へ立ち上っていく様を見上げて、両腕を抱き締めるようにして呟く。 「しかし、寒い……」 「いやぁ、こんなに積もりましたか」  雪景色に見入る千珠の後ろから、珍しく寛いだ夜着に身を包んだままの柊が顔を出す。 「青葉ではこんなにたくさんは積もらへんから、珍しいでしょう」 「ああ、すごいな」  千珠は一面の雪化粧を見回すと、ひょいと庭へ出た。ふかふかの新雪が裸足を包み込む感触に、千珠は寒さを忘れて目を輝かせる。  更にひらりと築地塀の上に飛び乗り、高い場所からあたりの風景を見渡すと、遠くに見える山々もが真っ白に塗り替えられている様が見て取れた。昨日まで歩いてきた道も、生い茂る木々も白い雪をたっぷりとかぶり、朝日を受けてきらきらと繊細な光を放っている風景は珍しく、そして心底美しいと感じた。 「すごいなぁ」 「少し溶けるまで、待たなあかんかなぁ。千珠さま、冷えますよ」 「あ、うん」  千珠はひらりと跳んで柊の横に戻ってきた。まるで小さな子どものように、見慣れない雪景色に喜ぶ千珠を、柊は微笑みながら眺めていた。 「あのさ、前から思ってたんだけど、柊はいくつなんだ?」  雪で濡れた脚を手で払いながら、千珠は(かね)てからの疑問を柊にぶつけてみる。  柊は、夜着の袖の中で懐手をして、頭二つ分ほど小柄な千珠を見下ろし、意味深に微笑んだ。 「さぁて、いくつでしょうな」 「……」  千珠は、柊の顔をじっと見つめてみた。  柊は千珠が出会った人間の中で、一番上背がある。どちらかというとがっしりとした体躯の舜海や光政と比べると、その線は細くも見える。鳶色の長い髪を全て高い所でまとめてすっきりと出した額、切れ長の一重まぶたの目と茶色味がかった瞳。年中外を飛び回っているため忍衆は皆褐色に近い肌の色をしているが、柊は日に焼けにくい体質なのか、肌の色は白いほうだ。  目鼻立ちのはっきりとした舜海と比べると、柊の顔立ちはとても涼しげである。表情まで忍んでいるのか、普段から淡々とした印象であり、いつも皆の側に寄り添っている影のような印象であった。 「……舜海が二十だろ、それより上だろうから……二十三くらいか?」 「惜しい、二十六です」 「え、俺より十も上なのか」 「ええ。若く見えるとよう言われますけどね」 「ふぅん。お前も青葉の寺に拾われたのか?」 「いや、俺はもともとここの生まれですよ。先々代の忍頭は俺の祖父やねん。もう隠居してますがね」 「そうだったのか。じゃあ本当はすぐにお前が忍頭になる予定だったんだな」 「お立場上、留衣が頭になったほうがいいと進言したんです。俺はただ、忍としてこの国のために動けたらそれでよかったから」 「へぇ……」  千珠は柊の端正な横顔を見上げた。柊の表情はどこまでも淡々としている。 「ま、今となっては、留衣は周防国の城主の奥方様や。落ち着くことになって俺はほっとしていますよ」 「そうだな……」  留衣と兼貞は、昨年の今頃から新しい生活に入っていた。もうしばらく会うこともない、千珠はふと、雪景色に留衣の顔を思い出していた。 「さて、舜海を起こすかな。千珠さまも、中で温もってくださいよ」 「ああ……」  柊に続いて中に入ろうとした瞬間、千珠は血の匂いを感じて動きを止めた。    その一瞬後、甲高い女の悲鳴が上がる。 「!」  千珠は咄嗟に塀を飛び越えて宿の外に出ると、悲鳴のする方へと駆け出した。しかし、裸足のまま出てきてしまったせいで、深い新雪に覆われた地面に脚が掬われ、うまく走れない。  地面をゆくことを諦めた千珠は、全身を縮めて木々の枝の上へと一気に飛び上がると、枝々を蹴って駆けた。千珠の脚に揺さぶられた樹の枝から、どさどさと雪がこぼれ落ちていく。  すぐさま、真っ白な世界の中に、ちらりと鮮やかな赤い色が見えた。鮮血の匂いと絡みつくように、血肉の腐ったような匂いが千珠の鼻をつく。鮮やかな赤のすぐそばで、大きな黒い影が蠢いているのを見つけた千珠は、ひときわ高く跳躍すると、音もなくそこに降り立った。  黒い影の動きがぴたりと止まり、ゆっくりと千珠の方へその鼻先を向けた。  その姿を見た千珠は、思わず息を呑む。 「お前、何だ……?」

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