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四、獣の如し

 そこにいたのは、身の丈八尺(約三メートル)はあろうかという、巨大な樋熊のような姿をした獣であった。しかし、ごわごわとした真っ黒な剛毛に縁どられたその顔は、まぎれもなく人間と同じ造りをしている。  よく見れば、薄汚れたつぎはぎのぼろ布を身に纏っており、手足も五本指で人間と似ているように見えるが、そこから生える鋭い鉤爪と体表を覆う剛毛で、まるで獣の様に見えるのだ。  濁った黄色い目の中で、縦に切れ込んだ黒い瞳孔がその鋭さを増し、威嚇するような目線が千珠に向けられる。その口は血糊でべっとりと汚れ、そこから覗く鋭い歯は、一本一本が脇指と同じ程の長さを持ち、全てが鋭く尖っている。牙を剥き低く唸りながら、その獣は女から離れ、四足で千珠と向き直った。  千珠は、獣から目を逸らすことなく、ゆっくりと間合いを計る。  そして、顔の前で鉤爪を構えると、瞬速で飛び掛かった。  同時に千珠に躍りかからんとした獣とすれ違いざま、千珠の鉤爪が獣の脇腹を斬り裂く。獣は恐ろしい咆哮を上げて、狂ったように両腕を振り回す。しかし千珠はひらりとそれらをかわし、後ろに跳んで距離を保ちながら、相手の出方を窺った。  低い唸り声を上げていた獣であったが、ふと、その唸りが止む。顔だけで振り返った獣が、流暢な人語を口にした。 「ふん……どうもお前はおれと同族らしい」 「貴様、鬼か」  千珠は警戒姿勢を解かずにそう尋ねた。獣は後脚で立ち上がると、どろりと濁った黄色い目で千珠を見下ろす。  ちょうど千珠の二倍はあろうかという巨体である。千珠は思わず一歩、後ずさった。  すると、みるみるその獣は小さくなり始め、瞬く間に一人の人間のような姿になった。  薄汚れ、あちこち破れた朽葉色の狩衣を身に纏った、ごくごく当たり前の人の姿に見える。顔中を血に塗らし、額から二本の角が飛び出しているということを除けば。  黄色い目は、相変わらず千珠を見据えて動かない。ごわごわとした黒く長い毛髪を振り乱し、血の気のない土気色の乾いた肌をしている。  ――俺と同じ、鬼の一族……。  それでも、この不気味さは何だ……。千珠は、初めて出会う同族の鬼の妖気に、肌がぴりぴりと粟立つのを感じていた。 「近頃都を荒らしているのはお前か?」  千珠の問いかけに、その鬼は少し肩を揺らす。 「何だ、ずいぶんと人間臭い台詞ではないか。仲間に出会えたと思ったのに」 「……仲間、か。もう一度聞く。都を荒らしているのはお前か?」  その鬼は千珠の言葉に少し毛を逆立てて、再び牙を剥いた。 「ああ、そうだ。人を喰って何が悪い。そういう貴様は、えらくまぁ腑抜けた面をしているではないか。人の世でのんびりと、人間に飼われているのか?鬼族の風上にも置けぬなさけなき小童め!恥を知れ!」  鬼は空に向かって一声吼えると、千珠に真っ直ぐ飛び掛ってくる。不意打ちのようなその素早さを見せたその攻撃を避けきれず、千珠は鬼と真正面から取っ組み合った。裸足が雪に埋もれ、動きづらい。何とか鬼の身体を受け止めてはいるが、千珠は体勢を整えることで必死だった。   眼前にあるのは、凶暴にぎらつく鬼の双眸。それが、千珠の琥珀色の目が真正面からぶつかり合う。千珠はふと、まるで写鏡を見ているような気分になり、小さく目を見開いた。  ――……同族。仲間。同じ、鬼……。  一瞬、里心のようなものが、千珠の心をかすめてゆく。 「餌である下等な人間に飼われるとは、恥晒しも甚だしい!貴様のような糞餓鬼は、今ここで喰ってやろう!」  その台詞に、千珠ははっとした。    ――餌、だと……?  こいつは人間を喰らう、禍々しき鬼。  ――俺は違う。俺は、人間を守るために、ここにいるのだ。こいつとは、違うのだ……!  千珠が妖力を解放させると、鬼はまるで熱いものに触れたかのように突然飛び退いた。そして、ふと視線を巡らせたかと思うと、そのまま脱兎の如く雪の中を駆けて消えてゆく。 「待て!!」  千珠は後を追おうとしたが、再び新雪に足を取られてその場にべしゃりと転んでしまった。そして、血に塗れた女の姿を目の端に捉え、雪まみれになりながら慌てて女のもとへ駆け寄る。  女は胸から腹にかけて深い傷を負ってはいたが、まだ息はあった。千珠は急いでその女を抱き上げると、宿の方へと駆け戻る。 「千珠!どこや!?」 「千珠さま!」  林を抜けようとしたところで、舜海と柊が姿を現した。 「千珠!その女は?」 「この先で鬼を見た。まだ息はある、早く医者に見せるんだ」 「分かりました!」  柊は女を千珠から引き取ると、急いで宿の方へと駆け戻っていった。舜海は雪にまみれた千珠の頭から新雪を払い除け、自分の衣を一枚脱ぎ、その肩に掛けてやる。 「お前、裸足やないか。はよう戻るぞ」 「ああ……。ここから都は近いか?」 「おお、もうこの峠を越えればすぐに見えるで」 「早めに向かおう、鬼が人を襲っている」 「よし。……ん?おいお前、手から血ぃ出てるやん」  あの鬼と取っ組み合ったときに、掌に負った傷を見下ろした。まるで剣山で抉られたように、千珠の掌は深い傷で覆われている。 「ひどいな……」  千珠の手を取って傷を調べていた舜海が、顔をしかめる。千珠はぽた、と真っ白な中に落ちた自分の鮮血を見下ろした。 「帰るぞ。手当せなあかん」 「……ああ」  都での事件は、本当に鬼の仕業だったらしい。同族、というにはあまりにも獣じみていて、毒々しい妖気を放つ純血の鬼。種類は違えど、どこか同じ気を感じる(なかま)……。  舜海とともに宿へと急ぎ戻りながら、千珠はさっき相まみえた鬼の黄色い目を思い出していた。そして、その身に纏っていた異界の匂いのことを。  ――あいつに俺は、どう見えたんだろう。人間に飼われている……か。  ――まぁ、反論はできないか。  千珠は、その生命を分かつ光政の顔を、ふと思い出していた。

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