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十三、弟
千珠が暗闇に紛れて千瑛の屋敷に到着すると、空からはらはらと雪が舞い始めた。千珠は頭上を見上げ、暗闇から生まれてくる、白い粉雪を掌で受けた。
ひらりと土塀を越え、どこから顔を出そうかと辺りを窺っていると、障子が開いて千瑛が姿を現す。
「いるんだろう、千珠。出ておいで」
千珠の気を感じ取っていたのであろう。暗闇に向かって声を掛けているような千瑛の呼び声に応じて、千珠は庭木の影から姿を現す。
その姿を見つけた千瑛は微笑むと、障子を開いて千珠を迎え入れた。そこは昼間通された広間とは違う、千瑛の書斎らしき部屋だった。
大量の書物や巻物が壁一面にうず高く積み上げられている様に圧倒されつつも、雪崩を起こさずして目当ての書物を取り出すことが出来るのだろうかと心配になる。そんな千珠の懸念に気づくはずもなく、千瑛は嬉しそうに微笑みながら蝋燭に火を灯し、明かりを増やした。
「どうした?こんな時間に一人で来るとは」
文机の前に座った千瑛の前に正座をすると、千珠は先ほど藤原業平が話して行った内容を告げた。千瑛の顔が徐々に険しくなる。
千珠の話を最後まで聞いた千瑛は、何度か深く頷くと、長い溜息を吐いた。
「薄々、そんな話になるのではないかと思っていた。業平が証拠を押さえたのか。……ありがとう、後はこちらで連絡を取るよ。ご苦労だったな、千珠」
「いえ」
「ん?すっきりしない顔だな、どうした?」
心配そうに、千瑛は首を傾げて千珠を覗き込む。千珠は自分の心情をどう伝えたものかと思い倦ねたが、結局首を振った。
千瑛にはこれから、業平の件で動かねばならぬという急務があるのだから、自分のせいで時間を取ってはならぬと遠慮したのである。
「何でもありません、大丈夫です」
「そうか……ゆっくり話を聞いてやれんで、すまんな」
千瑛は千珠の肩に触れ、笑顔を見せる。
「この一件が終われば、ゆっくり話をする時間も取れるだろう」
「はい……」
鬼に魔境へと誘われて迷いが生まれていることなど、まさか人である父に言えるはずもない。千珠は無理矢理に笑顔を作り、何か話題を変えられないかと部屋の中を見回した。
そして、しんとした静けさに満ちた屋敷の中の空気に、千珠はふと疑問を感じて、尋ねた。
「父上は、この広い屋敷にお一人で暮らしているのですか?」
千瑛は何度か瞬きをすると、少し逡巡するように視線を彷徨わせ、やがて答えた。
「いいや、普段は妻と息子が一人いるのだよ」
「え……」
千珠は驚いて、息を呑んだ。
よく、意味が分からなかった。
千瑛はそんな千珠の反応を予測していたようだ。そっと千珠の両肩を支え、目線を合わせて話を続けた。
「私は立場上、妻を娶って世間体を整えねばならなかった。珠櫛と出会い、お前が生まれて里へ戻されてから……三年後くらいか、さすがに断る理由に苦しくなってね、とある貴族の娘を嫁にもらったのだ」
「……」
千珠は混乱した頭で、ぼんやりと千瑛の言葉を聞いていた。少なからず、心に打撃を感じながら。
「その二年後、息子が生まれた。お前の弟だ」
「弟……?俺に?」
「ああ、今、齢十で名を槐 という。お前の名前と、つながりを持たせたくてな、そう名付けたのだよ」
「槐……」
弟?
ここにいる父と血を分けた、俺の兄弟?
――……家族、ということ?
突如として現れた自分の弟という存在に戸惑いながらも、ふつふつ、ふつふつと胸の中に何か温かいものが生まれてくるのを感じていた。
せんじゅと、えんじゅ。
その音の響きに、千瑛の想いを感じ取る。
「今、都はこんな有り様だから、妻の実家に帰しているのだ。……お前にも、いつか会って欲しいと思っている」
千珠はどう反応していいのか分からず、ただ黙って父の顔を見つめていた。千瑛は千珠の反応をひたすらに気に掛けるような、不安げな顔を崩さない。
「お前が怒るかもしれない、と思っていたらなかなか言い出せなくてな……すまん」
「怒るなど……」
「お前と珠櫛というものがありながら、何をぬけぬけとまた家族を拵えているのか、とな」
「そんなこと……」
「いや、思って良い。怒られて当然だ。……でも言い訳をするなら、お前たちと別れざるをえなくなってからというもの……私は、とても寂しかったのだ」
千瑛は寂しげに微笑する。
「珠櫛と隠れながらも一緒に過ごし、お前が生まれて……一緒にいられたのはほんのひと月、ふた月足らず。私は、珠櫛の思いを受け入れて、お前たちを里に見送った。都に一人戻ってからの私は、孤独だった」
「……」
千瑛の目は千珠を捉えていたが、その向こうに母・珠櫛を見ているのが千珠にも分かった。そして、身を切られるような思いで、離れ離れになった時の其の辛さも伝わってくるものがあった。
「人里では共に暮らせないのは分かっていた。私には神祇官という立場もあり、あいつの里への想いもそれぞれに深く、私たちは離別の道を選んだのだよ」
千珠は父を見つめながら、かつて三途の川の畔で言葉を交わした母の姿を想った。
父と母、二人はどのような気持ちで、それぞれの道を選んだのか……今の千珠には、想像することしか出来ない。
「人は、ひとりきりでは生きられぬ、弱い生き物なのだ」
千瑛は淋しげに微笑んで、千珠からそっと忍装束の頭巾を取ると、銀髪の頭をそっと撫でる。
「こうやって、お前とまた会える。お前を抱きしめることが出来る。そして、共に戦うことが出来ることが、まだ信じられないよ」
「俺もです。……本当は、俺、まだどうやって父上と喋ればいいのか分からない。嬉しいけど、どう振舞っていいのか分からなくて」
千珠は、少し頬を赤くした。本音を語ることに、緊張しているのだ。
「だから、俺が鬼の力を使って戦うところを、見られたくない気もするのです。怖がられたら、嫌われたらどうしよう……って」
たどたどしく、千珠は一息にそう言った。千瑛は少し驚いた表情を浮かべていたが、すぐに破顔すると、千珠の頭をまた優しく撫でる。
「何言ってるんだ!そんなことあるわけないだろう。とても頼もしかったよ、立派になったと思った。それに珠櫛の力が受け継がれているのが分かって、嬉しかった」
「本当ですか?」
「ああ。お前のことを、どうのこうのと言う者はいるだろう。そして、これからも出てくるかもしれない。でも、父がお前の力を誇りに思っていることを忘れないで欲しい」
「……はい……!」
嬉しかった。
この人にさえ認めてもらえるなら、もう何も怖くはないとさえ思わされるほど、心強かった。
腹の底がくすぐられるような気持ちが沸き、初めて父の前で、心の底から笑顔になれた。
「抱きしめてもいいか?」
「はい」
千瑛は千珠をひしと抱きしめ、また頭を何度も撫でた。千珠は目に涙が浮かびそうになるのを堪えながら、眼を閉じる。
「大きくなったなぁ……本当に。辛いこともたくさんあったろう。でも良かった、お前がこうして生きていてくれて……」
「父上……」
千珠も、父の背中をぎゅっと抱き返す。
自分よりも逞しく、大きな背中を。
自分とそっくりな顔立ち、母の思い出、千珠が探していた絆はここにもあったのだ。
そして、血を分けた弟までも……。
「父上、槐には、この件が片付いたら会えますか?」
「ああ、会えるよ。でもな……妻にはまだお前のことを話していないのだよ。槐も、まだ小さいからな。だから、兄だと名乗るのは少し先になるが、会うことはできる」
「そうですか……顔だけでも、見てみたいな」
「そう思ってくれるか。槐も私に似ているよ、つまりお前にも似ているということだ。まあお前ほど、美しい顔立ちにはならないだろうがな。ははは」
千瑛は肩の荷が下りて安堵した様子で、軽やかに笑っている。
千珠もまた、幸せだった。家族がまた増えるのだ。
自分は孤独だと悲嘆に暮れる、そんな日々もあったのに。今はこんなにもたくさんの人に囲まれて、絆を感じることができている。
――陀羅尼の誘いなど、跳ね除けて見せる。
鬼の血の鎖など、この感情を想い出せば、きっと断ち切ることが出来る。
千珠はそう、心に誓った。
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