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二十四、痛み

 千瑛が屋敷へ戻った頃合いを見て、舜海は、都にて修業をするという旨を皆に伝えた。 「そうですか、それは良いお話だ」 と、千瑛は手放しで喜んでいる。 「あの業平がそんなにも君を見込んだとは。君はもっともっと強くなれるね」  伝統を重んじる陰陽師たちが、外界の者を自分たちの中に引き入れるのは異例なことだ。千瑛はにこにこしながら他の面々を見回したが、千珠ら一行はまるで誰も笑っていない。千瑛はそれに気づくと、はたと笑顔を引っ込める。 「いきなりやないか。何で早う言わんかったんや」 と、柊はやや険しい表情でそう言った。 「すまん。あの術式が始まる前に言われたんやけど、術に集中できひんのも嫌やったから、黙っとった」 「そんなん、もう四日も前やないか!」 「すまん」  舜海は、素直に謝ると、軽く頭を下げた。柊は何も言えず、千珠を見る。  千珠は、無表情にそこに座っていた。浴衣の襟から胸に巻かれた晒しが覗き、その晒しと同じくらいに千珠の顔色は蒼白だった。 「千珠には、さっき言うた」 「え……千珠さま、良いのですか?」 と、柊は隣に座る千珠に詰め寄る。  千珠は、硬い表情で柊を見上げる。 「いいんだ。それが皆のためになる」 「千珠さま……!」 「私も、それがいいと思うでござんす」  宇月が、きっぱりとした声でそう言うと、皆が宇月の方を見る。  宇月は、真剣な表情で舜海の方へ向き直り、 「これから先、千珠さまの力がどうなるかは分かりませぬ。でも、あなたがもっと力をつければ、何の心配もないのでござんす。ひいては国のため、そして千珠さまのためになるでござんすから」 と、きっぱりとした口調で言い切った。 「二年など、短いくらいでござんす。その間、私が微力ながら、皆様をお支えしていくでござんすよ」 「はは、そりゃ頼もしい」  舜海は、いつもながらに迷いのない宇月の言葉に、表情を崩した。 「……そういうわけや」  千珠は、眉根を寄せて唇をぎゅっと結んだ。そんな千珠の表情を目にした千瑛が、表情を曇らせる。 「一旦国に返って、殿に許しをもらう。年が明ける前に、俺はまた都に戻る」 「そんなに急ぐのか?正月くらい……」 と、柊。 「今は時間が惜しいからな」  舜海の揺るがぬ決意の窺える言葉を聞き、千珠は苦しげに胸を押さえながらも、呟く。 「……もう決めたことだろう。俺達がどうこう言う必要はない」  千珠は尚も舜海の方を見ようとしない。台詞とは裏腹に、千珠の目は不安に満ち溢れているのが、誰の目にも分かってしまう。 「ああ、そうさせてもらうわ」   そんなやり取りに、柊も諦めたように口を噤む。その背後で、山吹が凍りついたような表情で畳を見つめている。 「明日、国へ発とう。この年の瀬に、あまり父上の所でのんびりしているのも悪いからな」 と、千珠。 「何を言う。もっと皆いたらいいのだよ」 「奥方様も戻られるでしょう。槐もそろそろ母が恋しくなっているし……。俺は、兄とは名乗れなくても、弟と暫く過ごせてとても楽しかった」  千珠は、千瑛に弱々しく微笑んで見せた。 「でも、傷がまだ痛むのだろう?」 「これくらい、大丈夫です。どうせ馬なので」 「そうだがな……」  親子のやり取りを引き受けて、柊が決定を下す。 「千瑛殿、我々は明日早朝に発ちます。舜海のことがある以上、光政様にも早くお伝えをしなければいけません。それに、これ以上、国を空けるわけにもいきませぬから」   ❀  千珠以外の者たちは、荷を片付けるために宿へ戻っていった。千瑛は屋敷に残った千珠と共に、そんな一行を見送った。  千珠が再び胸を押さえ、苦しげに顔を歪めるのを見つけて、千瑛はその肩を抱いた。 「傷が痛むか」 「いえ……そういう痛みではないような感じがいたします」  千珠は、俯いてそう言った。 「あの青年と、離れるのが怖いのだね」  ぴくりと肩を揺らし、千珠は父親を見上げる。 「きっとお前にとって、とても重要な存在なのだろう。見ていて分かるよ」 「……でも、これが最善なのです」  千珠は苦しげな表情のまま、呟く。 「それはそうだね。でも、思ったことは伝えておいていいと思うよ。そんな顔で言いたいことを抱え込んだままだと、お前も辛かろう。それに、彼もきっとその方がすっきりと出発できるだろう」 「……でも。……よく分からないんです」    千珠は混乱していた。  舜海が自分のそばを離れてしまうということが、自分にとってどのような影響をもたらすのか。  青葉の国へと迷い込んだあの頃から、ずっとずっとそばにいたのに。不安や迷いを、吹き飛ばしてくれたのはあいつなのに。  いつもいつも、笑ってぬくもりをくれた、安心させてくれた……あいつに甘えきっていた。  強くなりたい、それがあいつの願いなら。  しかもそれが、他ならぬ自分の為だというのなら、甘ったれたことを言って、舜海を困らせたくはない……。  黙って見送ること、それが最善なのだ。    頭ではそうしなければと思っているのに、心が追いつかない。気を抜けば、どこまでも女々しいことを言って、我儘にあいつを引き留めてしまう。  それだけは、したくなかった。 「これで……いいんです」 「そうか。ならば私は、もう何も言うまい」 「はい……」 「二年だ。すぐに過ぎるよ。私も槐も都にいるのだ、会いたくなったら、お前が会いに来ればいい」 「そうですね……」  千珠は、肩を抱く父親の胸に、そっと頭をもたせかける。  千瑛は、そんな息子を、ただ無言で抱きしめる。

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