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十、斎(いつ)く島

「なに……!?」  まるで土砂降りの雨のように海水が降り注ぎ、今まで龍の体を成していたものが千珠に降りかかる。素早く辺りを見回すが龍の気配は何処にもなく、泡沫のように消えていた。 「どういうことだ」  大きく揺れていた波も、龍が消えたことで徐々に落ち着きを取り戻していた。千珠は板切れを避けながら、岸の方へ泳いだ。  すると前方から舟が現れ、竜胆が顔を出しているのすが見えた。 「千珠さま!手を!」  千珠は手を伸ばして、竜胆の手をしっかりと掴んだ。ぐいと力強く小舟の上に引き上げられると、千珠は両手をついて喘いだ。 「大丈夫ですか?」  心配そうな竜胆の顔。千珠は息を整えながら、「ああ」と答えた。  舟の上には、宮司と柊もいた。柊はマント男に代わって櫂を持ち、舟を操っている。宮司の乗っていた所に、柊たちも別の船で合流してきたらしい。 「あれが噂の物の怪か、千珠さまでも歯がたたないとは……」  柊は今まで龍のいたあたりを、じっと見つめている。  宮司の先ほどの言葉を反芻しつつ、千珠は再び数珠を手首に巻き付けた。 「詳しく話を聞かせてもらおうか。お前、さっき何か言いかけていたな」  千珠はぐっしょりと濡れて張り付く頭巾を外しながら、宮司にきつい声でそう訊ねた。 「分かっています……とりあえず、暖かい場所へ行きましょう。あなたはずぶ濡れだ」  宮司は柊と舟の操縦を交代すると、厳島の方へ向かい始める。  千珠は身体に張り付く忍装束を気持ち悪そうにつまむと、ぶるっと身震いした。 「くそ、寒いな」  寒がりな千珠にとって、冬の海に落ち、更に冬の海風にさらされている今の状況はたまらないものだ。帯を解き、上着を脱ぎ捨てると、袖のない鎖帷子だけになる。それを見ていた竜胆は、驚いたように千珠の引き締まった細い身体を見遣る。 「千珠さまが人前で脱ぐなんて珍しい!」 「どうでもいいだろ、そんなこと。それより、竜胆、お前の服貸せ」  千珠は氷のように冷えた鎖帷子もじゃらりと脱ぎ捨て、完全に上半身裸になると、竜胆に手を突き出して衣を要求した。 「え!ちょっと勘弁して下さいよ!この真冬に……」 「俺が熱でも出したら困るのはお前だろ、ほら早く。寄越せ」  千珠の不機嫌な表情と有無を言わせぬ迫力に、竜胆はしぶしぶ帯を解き、千珠に忍装束の上に身に着けていた黒い羽織を与える。竜胆は更にもう一枚衣を着ていたため、裸にはならずに済んでいる。 「まったくもう、敵わねぇなぁ。熱なんか出さないくせに……」 「何だよ、お前もう一枚着てるんじゃないか。出し惜しみしやがって」  千珠は竜胆から奪った衣を身に付けると、ようやく一息ついた。    ❀  そして小舟は、三人を乗せて厳島へと向かう。  真っ暗な海の上を滑るように進む舟が、徐々に対岸の灯火が近付いてゆくにつれ、赤赤と海上を照らす篝火の中、厳島の大鳥居がその優美な姿を浮かび上がらせた。  千珠は舟の舳先に身を乗り出して、波間にそびえる丹塗りの大鳥居と、更にその奥に広がる海上の社を見て感嘆の声を上げた。 「すごい……!海に浮かぶ(やしろ)だ!」  闇夜に沈む夜の海に、紅き光を纏いて浮かび上がる厳島神社。それは素晴らしく荘厳かつ優美であり、千珠は子どものように目を真ん丸にして、美しい社を(つぶさ)に見つめた。 「きれいだな……!」   宮司は、そんな千珠の素直な反応を見て少し微笑むと、 「この島全体が御神体なので、島を傷つけぬように、海にお社を建てたと言われています。海上の平安と、豊漁、そして国の繁栄を守る海の女神(にょしん)様を、お祀りしている社です」 と、鳥居を見上げながらそう話す。  舟を降り、宮司の後について島に上陸すると、そこには数名の出迎えの者達が待っていた。 「言い忘れました、私は久良(きゅうら)と申します。ようこそ、厳島へ」  その男たちを背中に久良は名を名乗ると、膝を折って千珠たちに頭を下げた。男たちもそれに倣う。 「どうか、安芸の国を救っていただきたい」  その言葉に、千珠たちは顔を見合わせる。  久良が顔を上げると、冷たい海風が、竜巻のように辺りを駆け抜けていった。  篝火が風に吹かれ、浜に映る影がゆらゆらと不気味に揺れる。

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