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十三、緋凪の覚悟

 柊が光政に宛てて文を書いている間、千珠は湯浴みをさせてもらい、乾いた忍装束を身に付けた。頭巾と口布を巻き、外へ出る。  結局寝ないまま、今後のことを話し合った三人であったが、頭を使うことに疲れ果てた竜胆は眠ってしまっていたし、千珠もややこしい状況に気疲れしてしまっていた。  潮が引いて、鳥居の足元には濡れた砂地が現れていた。千珠はひょいひょいと砂の上を跳ねて進むと、大鳥居の上にひらりと飛び乗った。そして、瀬戸内の朝を見渡す。  今朝の海は荒れている。千珠が首に巻いている黒い布が、ぱたぱたと強い海風にはためいた。  海と空の境目が、うっすらと朝日に染まり始めている。千珠は、そんな暁の海を見たのは初めてで、徐々に黒から青、そして白く輝く朝の光に染まって行く海を、身じろぎせずに見つめていた。 「美しい……」  千珠はそう呟くと、表情を緩める。心が静かになっていくのを感じた。 「おい!そんなとこで何してる!」  しかし、きゃんきゃんと喧しい緋凪の声が、そんな千珠の穏やかな心地を波立てる。千珠がちろりと鳥居の上から緋凪を振り返ると、社の先端・火焼前(ひたさき)から、緋凪が何やら大声で怒鳴っているのが聞こえてきた。 「罰当たりなやつめ!そっから降りろ!」  どうやらまた怒っているらしい。千珠はひょいと後ろに一回転して浜に降りると、緋凪の立っている場所へと二三歩跳んで降り立った。  千珠の身軽さに驚いたのか、緋凪はじりりと後ずさりをして、着地して膝をついている千珠を見下ろす。 「妖ってのは、身軽なんだな」 「そりゃどうも」 「……お前、鬼のくせになんで人間と一緒にいるんだ?」  緋凪は、立ち上がった千珠に向かってそう尋ねた。  並んでみると、緋凪のほうが少しだけ背が低い。千珠は、明るい場所で見る緋凪の顔をまじまじと観察しながら「お前は人間の男のくせに美しい顔をしているな」と言った。 「まるで質問に答えてないぞ」 と、緋凪は憮然とする。 「青葉の主と、血の盟約があるもんでね。一族が滅んで、行く場所もないから力を貸してやっている」  千珠は口元を覆っていた黒い布を下げて、そう言った。 「一族が滅んだ?お前、ひとりぼっちなのか?」 「まぁね。一族皆殺しにあった。まぁ俺は運良く生きているが」 「へぇ……」  緋凪はしげしげと千珠の顔を見上げていたものだから、二人はしばし見つめ合うような格好になっていた。しかし、ふと緋凪は照れたように頬を染め、海のほうへと視線を向けた。 「お前は、強いんだろうな。抑えてはいるようだが、かなりの妖気を感じる」 と、緋凪は言った。 「まあな。お前は……どうも普通の人間とは空気が違うようだ」 「僕は神の器として、ずっとここで育ってきた。悪霊退散、とかそういうことはしないんだ」 「器、か」 「これで姉上や父上の役に立てるんなら、僕はこの力を使い続ける。久良がどんなに反対しても」  緋凪は決然とした表情でそう言った。千珠の脳裏に、昨日見た久良の涙が浮かぶ。  頑固そうな顔だ。こうと決めたらてこでも動かないような。久良の苦労が偲ばれる……と、千珠は軽く息をつく。 「まぁそのうち、その力を使わなくてもいいようになるだろ。そのために、俺達が動くんだ」  千珠がそう言うと、緋凪のどんぐり眼がこちらを見上げた。 「やめろって、言わないのか?」 「やめろって言ったってやめないだろ。それなら状況を変えるまでだ」 「そんなふうに言う奴は、初めてだ。……お前、名は?」 「千珠」 「いくつだ?」 「十七」 「ふうん、僕は十三だ。姉上は十八、優しい方なんだ。姉上が苦しまないようになるのなら、僕は何でもするって決めたんだ」 「そうか……」 「よく顔を見せろよ」  緋凪の言葉に、千珠は頭巾を外して顔を晒す。  朝日を受けてきらきらと輝く千珠の銀髪と、琥珀色の瞳、紅い耳飾りに、緋凪は目を輝かせた。 「僕と同じくらい綺麗なやつなんて、見たことないな!鬼っていうのは、美しいんだな」 「別に鬼だからじゃない。俺だから美しいのだ」 「でも僕の方が美しいぞ」 「いや、お前にはまだ色気が足りない」 「色気?なんだそりゃ」  そんな軽いやり取りに、緋凪は笑った。子どもらしい、愛らしい笑い方だった。 「何言ってんだ、馬鹿だな、男のくせに」  千珠もちょっと微笑んでみせた。緋凪は千珠の長い銀髪に触れたり、忍び装束の袷から覗く鎖帷子に触れたりと、しばらく千珠を観察していた。 「同じくらいの歳のやつなんて、あまり話したこともないから」 「ずっと、ここにいるのか?」 「うん。生まれてからずっと、この島を出たことがない」 「へぇ……」 「ずっとここで修行だ。姉上が遊びに来てくれるのが、何より楽しみだった」 「そうなのか……」  緋凪にとっての姉は、この狭い世界の中での唯一外の世界とのつながりであり、血縁という血のつながりを持つ同胞だったのだ。  千珠は、緋凪にとっての姉の存在の大きさを感じ、それを奪う伊予の国に少し敵対心が湧いた。  そんな姉を人質に取られ、身体をすり減らす子ども。  なるほど、久良がこいつを憐れむ気持ち分かるような気がする。 「お前は自由なんだな、千珠」 「自由……か」 「どこへでも跳んで行ける。羨ましいよ」  緋凪は、少し寂しげに微笑んだ。  因習に囚われ、ここから離れることのできない人生を、これからもずっと……。 「お前はそれを受け入れているのか?ここでずうっと、生きていくのか?」 と、千珠は思わず問うていた。 「……外を知っている者は、そう言うだろうな。でも、僕はそういう自分の運命を、もう分かっているから」  緋凪は海を見た。大きな黒い瞳に、青い海が映っている。 「いいんだ、これで。ここで、大切な人を助けるんだ」 「大切な人……」 「姉上、父上、僕にはそれしかない。この力を使って、護るんだ。……早く会いたいから、姉上に」  一度も日に焼かれたことのないような、風もすり抜けてしまうように儚い青白い肌の下に籠められた固い覚悟を思うと、かける言葉など思いつかない。千珠はただ、緋凪の横顔を見つめていた。 「お前にも、会いたい者がいるだろ?」 「会いたい者、か」  緋凪の気持ちが、まるで自分の感情のように千珠に流れ込んでくる。  千珠の脳裏に、舜海の顔が浮かんだ。そして、千瑛、槐という家族の顔。遠くにいるからこそ、会いたいと願う人々。  急に舜海の笑顔が、見たくなった。 「……」  千珠は、胸を押さえる。ずっと抑えられてきた想いが、どくどくと勝手に溢れ出すような心地がする。目の裏がずきんと熱くなり、千珠は目を閉じた。 「どうした?」  不意に黙り込んだ千珠に、緋凪が怪訝な顔をしている。  千珠は嗚咽にも似た、乱れかけた呼吸を隠すように、唇を結ぶ。そして、無表情を装うと「何でもない……俺、寝てないんだ。ちょっと眠る」と呟く。  緋凪はしばし千珠の様子を窺っていたが、ふいとまた海の方に目をやった。 「そうしろ。気が乱れているぞ」 「……あぁ」  千珠はその場から姿を消した。霧のように消えた千珠のいた場所を、緋凪は思わず二度見した。

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