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十四、おいた

 千珠は、整わない呼吸を抱えたまま、社を出てふらふらと森の中を彷徨った。    舜海のことをこんなにも強烈に恋しく思うことなど久方振りで、突き上げてくる切ない痛みを堪えるように胸を押さえる。  緋凪が肉親へ向ける強い想いに感化されたからだろうか、安定していた心が揺らぎ、足元がふらつくように不安が高まる。  暴走する海神を、あの巨大な龍を、俺は打ち倒すことが出来るのか?  実際立ち向かうのは、俺一人なのだ。今回は、陰陽師衆の助けもなければ、舜海もいない。  俺は抑えられるのか。神を。    考えれば考えるほど胸を締め付けられるように呼吸が苦しくなり、千珠は一際大きな樹木のそばに歩み寄り、へたりとその場に座り込んでしまった。 「はあっ、はぁっ……はっ」 「千珠さま?」  掛けられた声に振り返ると、そこには供物らしき果物を抱えた久良が立っていた。 「どうされたのですか?」 「は、はぁっ……苦し……っ、いきが……」 「これはいけない」  久良はすぐさま駆け寄ってくると、跪いて千珠の背を撫でた。 「千珠さま、落ち着いて下さい。ゆっくり息をして、さぁ」 「でき、ない……っ、はっ……」  千珠は久良の白い狩衣を掴んで縋り付き、必死に呼吸を整えようとした。しかし、そうしようと思えば思うほど上手くは行かず、余計に呼吸が乱れて頭がぼんやりしてきてしまう。 「すぐに屋敷へお連れしますから、さ、つかまって」  俄に慌て始めた久良は、千珠に肩を貸そうと身を屈めた。千珠は朦朧としてきた意識の中、無意識に久良の肩をみしみしと軋むほどに強く掴んだ。 「いたたたたっ!!千珠さま!?何を!?」 「大人しくしてろ……いいから、口を、開けろ」 「えっ!?ちょ、何するんですか!?うわぁあ!」  呼気が欲しい。この不調を抑えるためには、誰か他の人間の呼気かいる。千珠は久良を樹木に押し付け、へたり込むその身の上に跨がった。  そして白い指でその顎を掬い上げると、怯え切ってがたがたと震えている久良の唇を、唇で塞いだ。 「ん、んんんー!んー!」 「大人しくしてろ」 「あの、わたしは……っん、はっ……!」  抵抗する久良を抑え込み、千珠は思うまま久良の吐息を吸った。暖かく流れ込む呼気と澄んだ霊気が、千珠の身を清浄にしてゆくような気がした。  神域で過ごすことが多いためか、久良の霊気はまるで果実のように芳醇な香りがする。熱く、まるでそれ自体が鼓動を持っているかのような舜海の霊気とは異なるが、今の千珠にとって久良の霊気は思いの外美味で、乾いた身体に染み入ってくるように感じた。    気付けば千珠は、久良の首に腕を巻きつけて身体を寄せ、何度も何度も深い接吻を重ねていた。  久良の気が美味くてたまらず、いくらでもそれを欲しいと思った。乾いていた身体に、さらさらと甘く香り高い果実の蜜が流れ込むような、優しくて甘くて、たまらなく美味な霊気を。 「ふ、ん……」  いつしか久良の腕が腰に回り、予想よりもずっと強い力で引き寄せられた。呼吸が速まり、吐息が熱くなるにつれ、久良の霊気はさらに甘くなる。千珠はむしゃぶりつくように久良の舌を、呼吸を、唾液を吸い、引き寄せられるままに腰を擦り付ける。 「あ……千珠さま……」 「……ん」 「これ以上、してたら、あの……私」 「嫌だ、もっと、欲しい……」  このまま、舜海としていたことを、今ここでしたいと思った。中断されるのが嫌で、千珠は久良の首を左手で捉え、舌を伸ばしてその唇をぺろりと舐めながら、右手で久良の中心を撫でる。  そこには硬くなったものがあり、手応えを感じた身体が、ぞくぞくと続きを期待する。 「あっ……!お待ちください!」 「お前、なかなか美味だな……」 「えっ、いやっ、まって……!!」 「これも、欲しい……大人しくしてろ」 「そんな、駄目です、千珠さま……!」    まさに千珠の手が袴の下に潜り込もうとした時、ぱんぱん、と柏手を打つ音が聞こえた。    多少苛立ちながら振り返り、千珠は表情を引きつらせる。   「はいはい、そこまでにしておきましょうか」  にこにことさも楽しげに千珠の所業を眺めながらそこに立つ黒い狩衣姿の男は、京の陰陽師衆棟梁・藤原業平であった。  そしてその隣にいるのは、呆れるを通り越して笑うしかないといった微妙な笑みを浮かべた、柊。 「千珠さま、おいたはせんことですと、俺ついこの間言いましたよね?」 「あ……」 「はっはっはっ、千珠さま、流石ですな。男女問わず虜にするその色香、私の娘にも分けてやりたいものです。あっははは」 「業平殿。何故、ここに?」  ――都で舜海に修行をつけてやってるんじゃないのか?何で、こんなところに……?まさか、舜海もここに? 「残念ながら、今回は共を連れていませぬ。宇月がおりますからね」 「……」  まるで思考を読んだかのようなことを言われ、千珠は目を瞬く。 「そのあたりは屋敷に戻ってから話そう。千珠さま、とりあえず久良殿から離れなさい。まったくもう、あなたという人は、ちょっと目を離すと男だろうが女だろうがすぐに手を出して。そんなことしたらあかんって、昨日話したやろ?ほんまに油断も隙もない。俺があれほど気を付けろと言ったのに、何で言うことを聞いてくれへんのかな。これだから俺は最近、老けただの説教くさくなっただのと皆に言われて……」 「あぁもう!五月蝿い!くどい!」  放っておくといつまでもくどくどと説教をする癖がついてしまった柊の声を遮って、千珠は憮然とした表情で立ち上がり、久良に手を差し伸べた。 「申し訳ない。あなたの気があまりに美味だったもので、我を忘れてしまった」 「……はぁ」 「お陰で楽になりました。ありがとうございます」 「はぁ、ならば、良いのですが……」  千珠の手に掴まって腰を上げた久良は、頭二つ分ほど小柄な千珠を見下しつつ、乱れた着物と烏帽子を直した。まだ頬が赤く、気まずそうに柊と業平を見遣る。 「すいません、すいません。本当に、もうこんなことさせませんから」 と、柊は千珠の頭をぐいぐいと押さえつけながら、久良に謝り倒すが、千珠は尚も膨れている。 「あ、はぁ……。ご苦労、されてそうですね。分かります。私も、緋凪さまには手を焼いておりますから」 「あぁやはり。いや、全く困ったものですな」 「おい、俺を子ども扱いするな!」  煩わしげに柊の手を払い除け、千珠は喚いた。  そんな様子を、業平は意味深な笑みを浮かべ、ゆったりと頷きながら眺めているのであった。    

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