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十六、業平ふたたび
「本当に大丈夫なんだろうな」
作戦会議が終わり、千珠は、業平、宇月と三人砂浜へ出ていた。
真昼の明るい太陽がきらきらと水面を照らし、穏やかな波の音が、辺りに響いている。夜な夜な恐ろしい龍が出る海だとは思えぬほど、今は穏やかな凪である。
業平は微笑むと、袖を軽く捲り上げた。
「試してみますか?」
「……そうですね、是非」
千珠がそう言うと、業平は波打ち際に歩を進め、裾が濡れるのも構わずそこに片膝をついた。懐から小さな白い紙切れを取り出すと、そっと水面に浮かべる。
紙の中心には赤い五芒星が描かれ、その周囲に複雑な文字が並んでいる。業平は唇に笑みを湛えたまま胸の前で合掌し、小さく呟く。
「結界術・氷晶牢 、急急如律令」
業平が手を水面に乗せると、海水がぴきぴきと微かな音を立てながら凍りつき、波の表面に厚い氷の膜を張っていく。
業平の術に、千珠は目を見張る。いとも簡単に摩訶不思議なことを成す業平は、まるで奇術師のようだ。
「ちょっと歩いてみてください」
業平は水面に手を置いたまま、振り返って千珠にそう言った。千珠は砂浜からひょいと飛び上がると、白く凍った海面に上にふわりと着地した。
ぶ厚い氷が張っている。この硬さならば、千珠一人がいくら飛び跳ねてもびくともしない。
しゃがんで氷の下を覗き込むと、その下では海面が何事もないかのように揺れていた。千珠は足元を見下ろしつつ「すごいな」と呟いた。
「これなら踏み込んでも大丈夫そうですね」
「そうでしょう。この間、琵琶湖で少々困りましてね。その時新たに考案したのです」
業平は事も無げにそう言って微笑んだ。
「でも、術者が手を離すと、これは消えてしまうのが難点でしてな」
「えっ」
業平がぱっと手を水面から離すと、その膜は瞬く間に姿を消し、千珠はずぼっと海の中に落ちてしまった。
「うわ!」
「あ、千珠さま!」
宇月が慌てた声を出す。千珠は浜まで泳いで戻ってくると、じろりと業平を見上げた。
「消すなら消すって言ってくださいよ」
「いや、これはなかなか力が要るもので。宇月と私とで、こちらからあなたを援護しますから」
「そりゃどうも」
千珠はずぶ濡れになった頭巾を外し、渋い顔で海水を絞る。業平がにこにこしながらそんな千珠を見ているものだから、絶対わざと落としたに違いないと、千珠は内心舌打ちをする。
「今宵は対岸からもこの術を発動させます。そのために数人、力の強い陰陽師を呼んであります。中立であらねばならない都から人が来るということが知れると面倒なので、極秘ですがね」
「そうですか。まったく、こっちに来てから落ちてばかりだな……」
「こんなところで脱がないで欲しいでござんす」
千珠は衣を脱ぎながらぶつぶつとそう言い、耳半分で業平の声を聞いていた。宇月は千珠が脱ぎ捨てた衣を拾いながら小言を言う。
「舜海も、来ますよ」
千珠の動きが止まる。
「極秘ですから、術式が終われば気づかれぬようにすぐに戻れと伝えてあります。千珠さまと会うような時間はないかもしれぬので、彼には言っていません」
「……」
千珠は複雑な表情を浮かべて、業平の方を向いた。
ぽたぽたと、前髪から海水が滴る薄着の千珠は、業平の目から見ても美しく映った。舜海の名前を出した途端、子どもっぽかった表情が影を潜め、瞳に熱がこもる。
「まぁ、千珠さまはそのようなことには構わず、海神に集中してくださいね」
業平は再びにこにこと爽やかな笑みを浮かべて、濡れた裾を引きずって砂浜に上がる。そして、そのまま屋敷の方へと歩いていった。
「わざわざ言わなくてもいいのに……」
千珠はため息をつくと、宇月の拾った衣を取り、ぎゅっと固く絞った。ぼたぼたと砂浜に水が溜まる。
「業平様は、ああ見えて意地悪なのでござんす」
「……いや、見るからに意地悪だろ」
「あと、千珠さまの修行の成果も見たいのだと思います。ちゃんと自分を制御できるかどうか」
「悪趣味な奴だ。こんな大事なときに試すなってんだ」
千珠はそう言い捨てると、海を眺めた。宇月は少し心配そうな顔で、千珠の横顔を見上げる。
「まぁ、意外とどうもないな。ほら、大丈夫だろ?」
「そうですね、気も乱れていないでござんす」
「そうだろ」
千珠は少し得意げに宇月を見て笑みを見せた。宇月もそれを見て微笑む。
「さあさあ、早く着替えを。風邪を引くでござんすよ」
「言われなくてもそうする」
世話を焼く宇月と共に、千珠も屋敷の方へと戻る。
頭の中では、舜海のことを想っていた。
二年は会わないつもりなんだ。遠くから、俺の姿をしっかり見ておけばいいんだ。
――見てろ舜海。俺は、必ず海神を抑えてやる。
千珠は、心に強くそう念じた。
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