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十七、見守る瞳

 緋凪は、久良と数名の供と共に禊場(みそぎば)へと向かっていた。神輿に乗せられ、ゆっくりと山道を進む。この先の滝で、これから身を清めるのである。  まるで死装束のような白い(ひとえ)と、綿の入った白い羽織に身を包んだ緋凪は、その道中ずっと目を閉じていた。  海神に力を捧げる度、この身体から徐々に命を削られてゆくのを感じていた。  しかし、自分にはこれしかない。他の者が持ち得ないこの力を、今使わないでいつ使う。  失われゆく命を惜しいとは思わない。でも、怖くないと言えば嘘になる。毎晩のように血を吐き、止まらぬ咳に身を縮めて耐え忍びながら、今夜もこうして命を捧げ続ける。  ――辛い、苦しい、寂しい……でも、姉上に会いたい。  優しく僕に微笑みかけてくれる、唯一の存在だから。  姉上を助けるためなら、この身がいくら磨り減ろうと構うものか。  緋凪は目を開く。神輿が止まった。  久良に差し出された手に掴まり、緋凪はゆっくりと神輿から降りる。  久良の手を離れて一人滝壺へ向かう途中、緋凪は目眩を感じてがくりと膝をついてしまった。慌てて駆け寄ってきた久良にその身を支えられて、緋凪は襲ってくる吐き気に耐える。 「大丈夫ですか?ここ数日毎日じゃないですか、もう今日は……」 「五月蝿いぞ。父上から命が来てるんだ。僕は、やる」  緋凪はぐいと久良の胸を押しやると、何とか自分で立ち上がった。その時ふと、久良の顔を見て思い出す。 「お前……さっき、千珠と何をしていたんだ」 「えっ。み、見ておいでで?」 「千珠があまりに辛そうだったから、気になって追いかけた。そうしたら僕より先に、お前が」 「あ、えーと。あれは」  朝方の少し辛そうな千珠を見て怪訝に思った緋凪は、少し時を置いてからその後を追ったのだ。そして、助け起こそうとした久良にしがみつく、千珠の姿を見た。  しかも、千珠が久良に口付けるのを見てしまった緋凪は、何故だが見てはいけないものを見たような心地になって胸が苦しくなり、すぐにその場を離れたのだった。    あんなふうに誰かに縋ったことなどなかった。  生まれた時から特別な扱いを受けてきた。神聖なる厳島の覡となるために教育を受け、同年代の子どもと出会うこともなく、親しい人間と笑顔を交わすこともなく、ここまで育てられてきた。  だからだろう、誰かに寄りかかって甘えることなど思いつきもしない行為だったのだ。  だからよく、分からない。  人の体温を感じるということが。二人の行動の意味が。    「久良」 と、緋凪はどことなく気まずい顔をしてそばに控えている久良の方を見下ろして名を呼んだ。 「はい」 と、久良はそのまま緋凪を見上げる。  幼い頃から、自分の身の回りの世話をしていた男。自分の我儘をいつも受け止める男。  一緒に過ごしているのに、きちんと顔を見たことが無いことに、ふと気づく。  緋凪は久良の前に膝立ちになると、じっとその顔を見つめてみる。 「緋凪さま?」 「黙れ」  怪訝な表情。雅な眉にはっきりとした二重瞼の知的な目をしている。多くの者が、自分とすれ違うときは頭を下げるため、あまり人と目を合わせたことがないことに気付く。しかし久良は今、まっすぐに緋凪の瞳を見返していた。 「……お前、こんな顔してたんだな」 「?何を言っているんですか。それより、お身体は……」  その言葉を遮り、緋凪は千珠の行動を真似て久良の身体にもたれかかってみた。 「ど、どうしたんです?」 「黙れって言ってるだろ」 「……」  暖かい、自分よりも大きな身体。おずおずと肩に触れる久良の手も、暖かかった。  心地いい。こいつは、俺のことを裏切らない。そんな揺るぎのない感覚が、自然と身体越しに伝わってくる。 「あったかいんだな、人の身体っていうのは」 「緋凪さま……」  久良はの腕が背中に回り、しっかりと抱きしめられる。嗅ぎ慣れた香の香り、温もった衣の感触……。  緋凪は今、生まれて初めて心の底から安堵していた。自然と、涙が溢れて来る。  ――怖い、本当は怖い。  あの海神に意識を奪われている間に、自分が為してしまっている所業が。  ――分かっている。  本当は、父親が自分のことを捨て駒のように扱っていることくらい。でも、腹違いの姉である美雁姫のことは大好きだから、守りたい。  厳島へ参拝にやって来た美雁姫は、すぐに緋凪に笑いかけてくれた。  半年に一度、ほんの数時間という短い時間を共に過ごすだけの、血の繋がった姉弟。  ちゃんと緋凪の目を見て、話を聞いて、優しく笑いかけてくれる暖かな人。     そんな、姉のために。  今夜もあの怪物に、この身を与える。 「久良……側を離れるなよ、ずっと……」 「はい、もちろんです。いつでもそばにおりますよ」  緋凪は溢れてくる涙を堪えず、久良の衣を濡らしながら泣いた。  急に、自分がこの世で一番弱く、脆い存在になってしまったように感じながら。

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