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二十一、対峙
伊予と無月島から張られた二つの氷がぶつかる予定地点に、千珠のいる島はある。そこからは、じわじわと海面が白く凍ってゆく様が、月明かりの下ではっきりと見て取れた。
しかし、あと少しで氷が張り終えようかというまさにその時、千珠の足元で波が不気味にうねり始め、ずずず……と海底から不気味な音が響いてくる。
千珠は身構え、視線を巡らせる。
すると突如、目と鼻の先で、龍の姿をした海神が飛沫を上げて飛び出してきた。あまりの素速さに、千珠と竜胆は目を瞠る。
龍は首だけをぐいと曲げると、紅い双眸を千珠に向けて、まるで笑っているような口の動きを見せた。
千珠は睦月島側からの氷がすぐそこまで届いているのを目の端に捉えると、岩山を蹴って跳んだ。
そして、光輝く草薙の剣を両手でしっかと握り締めると、渾身の力を込めて龍の鼻先に斬りかかる。
龍は空中でさっと首を引くと、千珠の剣をすり抜けた。空中で体勢を立て直せない千珠に向かって、すぐ様巨大な口を開いて襲い掛かる。
「くそっ……!」
千珠は既 のところで龍の鼻先を蹴ると、ひらりと飛び退って海の上に落ちていく。ちらりと海面を確認すると、そこにはすでに氷の膜が張っていた。
千珠は海面に着地した。身を屈めて、龍に飛ばされた反動を殺す。
龍は、すぐさま頭から突っ込んできた。千珠が素早く後ろへ飛び退ると、龍は厚い氷の膜を難なく突き破って再び海の中へと潜り込んでゆく。
ばきばきっ!!と、その衝撃で重く乾いた音を立てながら分厚い氷が裂けてゆく。深い亀裂が辺りに走り、めきめきと氷が割れてゆく。
千珠は木の葉のように揺れる氷の上で目を走らせると、龍の浮かび上がってくる位置を読もうとした。ごおおぉ……、と水の中を龍が泳ぎ回る音が、足元から響いてくる。
もっと伊予のそばであいつを暴れさせなければ意味がない……。
千珠は剣を背負いながら、表面が白く凍りついた氷の上を疾走 り出した。すると、千珠の行く手を阻むように、龍が氷を突き破って飛び出して来る。その拍子に降り掛かってくる巨大な氷の欠片を草薙の剣で薙ぎ払いながら、千珠はまっすぐに龍に向かってゆく。そして龍の目前で踏み込んで跳躍すると、龍の首を横一文字に薙ぎ払った。
グォオオオオォォン!!
恐ろしい咆哮が上がり、夜空が震えた。周囲の氷が、その震えに共鳴し、めきめきと巨大な亀裂が生まれてゆく。
手応えがあった……!
千珠は龍から目を逸らすことなく、剣を背中に背負い、暴れる龍によって錐揉みされる氷の上に片膝をついて着地した。氷に触れた手が、表面の霜を拭う。
龍が、紅くぎらつく双眸をまっすぐに千珠に向ける。そこには紛れも無い怒りの表情があった。
『貴様……昨日よりはやるようだね』
龍は直接能に響いてくるような重い声で、千珠にそう言った。千珠は口布を下げると、ちょっと笑ってみせる。
『我は神ぞ。たかだか小鬼が、この我に敵うとでも思うてか』
「人の子に力を借りねば姿を保てぬ神など、畏るるに足りぬ」
千珠は立ち上がってそう言い放つと、龍は低く唸りを上げる。
『生意気な子鬼が。喰って我が身の一部としてやろう』
「喰えるもんなら喰ってみろ」
琥珀色の瞳と、紅色の瞳が、真っ向からぶつかり合った。千珠は挑発するように笑みを見せ、再び伊予の方角へと走り出す。海岸線は目の前だ。
龍は分厚い氷をその巨体で破壊しながら、まっすぐに千珠を追ってきた。波に煽られて大きく揺れ動く氷の動きに合わせ、千珠はひょいひょいと身軽に氷の上を駆けてゆく。
氷が邪魔で動きを鈍くなっている龍は、何度も苛立ったように咆哮を上げながら、千珠を飲み込もうと巨大な口を開く。
千珠は不意に身体を切り返すと、突っ込んでくる龍の顔を袈裟斬りにする。切り裂かれた龍の頭の傷から、金色の光が漏れ出し、怒り狂った龍の咆哮が、飛沫と高波に荒れ狂う夜の海に響き渡る。
龍は千珠に誘われるまま、伊予の国の港へと向かっていく。
❀
宇月と業平は岩場に隠れながら術に集中し、事の顛末を見守っていた。
手は離せない。術が解けて、龍の足止めも千珠の足場にもならなくなるからだ。
沿岸に屯していた警護兵たちは、沖に突如として現れた龍の姿に仰天し、為す術もなくわらわらと混乱を見せ始めていた。黒い忍装束の千珠の姿は浜辺からは見えない。
暴れ狂いながらこちらへまっすぐ向かってくる龍の姿は、否応なしに兵の注目を集め、伊予の城から注意を逸らすという思惑は上手く運んでいる。
「どういうことだ、伊予には来ないと聞いていたのに!」
「早く!伊予守に報告を!ありったけの兵をこちらに寄越すのだ!」
がしゃがしゃと鎧のぶつかる音が響き、男たちはあたふたと海岸を走りまわった。
闇に紛れた東の岩場に身を潜め、術を成している業平はそんな様子を横目に見ながら、ほくそ笑んだ。
業平は少しずつ元いた場所から距離を取り、広い範囲に術を成すべく移動をしていたのである。
睦月島との連携もうまくいった。千珠も手はず通りに龍をこちらに呼んでいる。
あとは、こちらの力が最後まで持つかどうか。そして、誰にも気づかれずに退散できるかどうか。宇月の霊力は強くはないことは承知しているが、ここは踏ん張ってもらうしかない。
「頑張れよ……宇月」
業平はそう呟き、月光の下、走りまわる千珠の黒い影を目で追った。
❀
そのころ、伊予の城も俄に騒々しくなってきていた。
兵士たちが慌てふためきながら海岸に集まり始め、山手にある城の方は徐々に人の姿が減ってゆく。そんな中、柊・椿・山吹・左雨・朝飛は黒い忍装束に身を包み、各自が闇に紛れて気配を消していた。
柊は椿の手引きで、美雁姫の幽閉されている天守閣のすぐ下にまで来ている。ここに辿り着くまでに、伊予守が雇った他国の忍数名を倒してきたが、今の所ここに敵の気配はない。
柊はじっと神経を尖らせながら、慎重に天守閣の格子戸に手をかけた。
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