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二十四、終焉

 それから、三日が過ぎた。  伊予国は、沿岸に置いていた軍部の砦を失った。その上、併発した火事と高波によって兵力を大幅に削がれる結果となった。軍部という後ろ盾を失った現伊予守は権力を失い、再び先代の息のかかった者たちが主権を回復したのである。  美雁姫もその混乱時に姿を消し、安芸国が伊予国へ遠慮する必要もなくなった。そのため、安芸は伊予に向けて宣戦布告を予告した。  しかしその頃には、伊予守は既に新たな人物へと交代していた。結果、戦にはならず、伊予は安芸に対する無礼を正式に詫びたのであった。  こうして、ひとときの主権争いに絡む物怪事件は、幕を閉じたのである。  ❀  千珠は、眠っていた。  妖力という妖力を全て使い果たし、身体を動かすことすらままならない状態に陥っているのだ  皮膚の傷はその日の晩のうちに全て治癒したものの、失われた妖力はなかなか戻らず、千珠はただただ、こんこんと眠り続けた。  ある日の昼過ぎ、宇月が千珠の世話を焼いていると、ふらりと緋凪が現れた。  緋凪は相変わらず青白い顔をしているが、以前よりも表情は柔らかかった。 「まぁ、緋凪さま」 「……礼を、と思ったが。また寝てるんだな」 「はい、神と戦ったからでしょう。根こそぎ妖力は持って行かれてしまったようでござんす」 「ふうん……」  緋凪は千珠の枕元に座り込むと、その顔をじっと見つめた。 「色々、ありがとう……な」  緋凪は、眠っている千珠にそう言った。宇月が微笑むのを見ると、緋凪は罰が悪そうに鼻を掻く。 「起きてる時は、多分言えないから。本当に、世話になった」 「お伝えするでござんす」 「いい。何も言うなよ。こいつのお陰で、僕はいろいろ気付くことがあったからな」  久良の存在の大切さや、人の温もり。そして、誰よりも大切な姉を助けてくれたこと……いくら感謝してもし尽くせない。  ――……人を信じることが、これからならば出来そうだ。緋凪は内心、そう思った。 「海神には、眠ってもらったよ。こんな風に人の間の争い事に巻き込んで、悪かったって謝って……邪気が拔けるまでしばらくの間、封印させてもらうことにしたんだ。じゃないと、禍々しい妖に堕ちてしまうから」 「そうでござんすか」 「僕がもっとしっかりしてれば、海神様を汚さずに済んだのにと後悔している。だからここでずっと、これからもこの社を守って生きて行くよ」 「はい。緋凪さまにしか出来ないことですものね」  ふくふくと笑う宇月の顔をちらりと見て、緋凪は恥ずかしそうに頬を染めてすぐまた目を逸らした。  そして緋凪は千珠のそばに寄り、顔の横に手をついて身を屈めると、千珠の額にそっと口付けを落とした。美しい少年二人のそんな図に、見ている宇月が照れたように頬を染めている。 「これは、俺からの礼だ。半妖なら、このありがたみが分かるだろ」 「おや、これは」  千珠の額に、小さな金色の光がうっすら浮かんで、消えた。緋凪の霊力が千珠に渡ったのである。 「これでちょっとは回復も早まるだろ」 「さすがでございます」  宇月の感嘆の声に、緋凪は笑った。初めて見せる、緋凪の笑顔だった。    緋凪が出ていくと、千珠はゆっくりと目を開いた。 「おや、起きていたでござんすか?」 「……あいつ」  千珠は額に手を当てた。流れこむ緋凪の力を感じる前から、起きていたのである。 「素直じゃないな」 「お互い様でしょう」  宇月はにっこりと笑う。千珠はため息をつくと、起き上がろうと身体に力を込めるが、それは上手くいかなかった。 「駄目ですよ、もう少し、大人しくしているでござんす」 「分かってる……くそ」  千珠は諦めたようにため息をつくと、開いている障子から青い空を見上げた。 「千珠さま、あの時は、本当にありがとうございました」 「え?ああ……。もういいよ」 「あの時、私をかばった千珠様のお背中、とても頼もしくて素敵でござんした」  千珠は少し目を見開いて宇月を見た。そして、少し照れくさそうに呟く。 「……お前が俺を褒めるなんてな」  宇月は微笑むと、深々と頭を下げる。 「命を救って頂き、ありがとうございました」 「やめろよ、そんなの」  千珠はやや頬を染め、顔を背けた。宇月は居住いを正し、千珠の額の汗を拭おうと、手拭いを桶で濡らす。  妖力がなくなり身の守りが薄くなった千珠は、人間のように熱を出してしまったのだった。  熱っぽく少しぼんやりとした頭で、千珠は自分のために冷たい水に手を晒す宇月を見ていた。晒しを絞る水音と、波の音が重なって聞こえてくる。  額に触れようとした宇月の手を、千珠は無意識の内に握っていた。 「どうしたのでござんすか?」  宇月がきょとんとして千珠を見下ろすと、千珠はじっとその大きな猫目を宇月に向ける。 「お前……よく見ると美味そうだな」 「へっ?」  大真面目な顔をしてそんなことを言われた宇月は、素っ頓狂な声を上げた。手を引っ込めようと頑張る宇月の手首を握ったまま、千珠はのそりと身体を起こす。そして尚も身を引こうと頑張る宇月に、四つ這いでじりじりと追い詰めてゆく。 「な、何をおっしゃってるのでござんすか、千珠さま」  宇月は軽く千珠を睨みつつ、冷や汗を流して後ずさる。  千珠は真剣な目付きで宇月を見据えたまま、膝を擦って宇月に迫った。千珠の着物の胸元がはだけて、真っ白な肌が顕になる。  宇月は、柱に背中をぶつけ、後が無いことに気づいたのか、顔を引きつらせた。 「宇月、お前の唾液が、欲しいな」 「はい?」 「いいだろ?……宇月」  千珠の美しい顔が、みるみる迫ってくる。鼻と鼻が触れ合い、千珠の甘い吐息が、宇月の唇に降りかかる。 「きゃぁああああ!!!」  ばしぃっ……!!  悲鳴と弾けるような音が、厳島中に響き渡った。  ❀    数分後、再び布団に横たえられた千珠の枕元に、柊と竜胆が座っていた。  千珠の左頬が、林檎のように赤く腫れている。  皆から離れて部屋の隅に座っている宇月は、憮然として海を眺めていた。  そんな状況の中、柊はにやりと笑う。 「またですか。唾液が欲しいなら俺に言ってくれたらええものを」  千珠はちらりと柊を見上げ、眉根を寄せて蒲団を口元まで引っ張り上げた。 「いらない」 「しかし、神を抑え、男も女もたらしこむ千珠さまを殴り倒すなんて、宇月は最強ですね」 と、竜胆は楽しげに笑いながらそう言った。 「たらしこむってなんだよ」 と、千珠が蒲団の下から口を挟む。 「何度も言わないで欲しいでござんす」 と、宇月はとても機嫌が悪い。 「いっときあれだけ浮名を流してしまったわけですからねぇ、千珠さま、宇月が警戒するのも分かるなあ」 「五月蝿い」 「何で俺には色仕掛けしてこないんです?」 と、竜胆は不思議そうに首をかしげた。 「お前は全然美味そうじゃない」 と、千珠は不機嫌にそう言った。 「そうですかぁ?こんなに生命力に溢れてるのに。接吻くらいならいくらでもしてあげますよ?」 「い、ら、な、い!」 「もうええから、千珠さま、とにかく今は大人しく寝ててくださいよ」  竜胆と千珠の言い合いを遮って、柊は竜胆の頭をぺしっと叩いた。 「それから宇月、俺達は食事をとったらまた後始末がある。我慢して千珠さまの介抱をするんや。ええな」 「……はい」  宇月は渋々といった様子で返事をした。 「我慢してって……、なんだよ我慢してって」  千珠は軽く傷ついたように、ぶつくさとそう言った。

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