170 / 341
十、地獄と涙〈後〉
千珠は夜顔の前に立つと、ゆっくりと編笠を外した。
――子ども?
小さな身体には不似合いな、どろりと濃い妖気に、千珠は少しばかり顔をしかめる。今まで出会ったことのないような、異様なものだ。
「ようやく、現れたな、子鬼よ」
千珠が夜顔の様子を窺っていると、猿之助の声が霧の中から響いてきた。
のっそりと夜顔の背後に現れた猿之助を見て、千珠は切っ先をまっすぐその鼻先に向ける。
「久しいな、佐々木猿之助。陀羅尼の次は餓鬼か。自分の力を使わず、妖に頼るとは情けない陰陽師 だ」
「陰陽師は、強い妖を使役してこそ、その力。どうだ、こいつは陀羅尼よりも強いぞ」
「俺がまた、魔界に送り返してやるよ」
「ふん、こいつに帰る場所など最初 からない。俺に従い、全て破壊し尽くすだけの存在だ」
「そんな子どもに、何ができる」
「その台詞、そっくりそのまま返してやる」
猿之助はにたりと笑うと、夜顔の背を押した。
夜顔と千珠は、闇の中に聳える御影堂の前で相まみえた。
――この子ども……意識を奪われているのか。それとも、意志を持たぬのか。
虚ろな目。感情を感じさせない、のっぺりとした表情。
なのに、この子は泣いている。大きな黒い目から涙を流し、泣いている。
――何故、泣いている?
その理由を考える間もなく、猿之助の声が高らかに響いた。
「やれ!あいつを殺せ!」
その声に、夜顔は即座に反応した。千珠も目を見張るほどの疾さで、夜顔は千珠の懐に入ってきた。素早く飛び退きながら、夜顔の右手が黒い炎に包まれるのを目の当たりにし、目を瞠る。
――炎を使うのか。
妖気と入り混じった炎、触れるだけで燃え尽くされそうな熱さだ。
あの素早さと炎……気を抜いてはやられてしまう。
しかし力は大きいが、使い方も戦い方も知らない。……まるで、昔の自分のような。
千珠は夜顔の攻撃を交わしながら冷静にその動きを観察し、夜顔が拳を振りぬいた隙を見て、宝刀で夜顔の足を払う。
夜顔が、体勢を崩してその場に倒れた。
千珠は地面を蹴り、夜顔を地面に押さえ込もうと、刀の峰でその身体を叩き伏せた。
いや、叩き伏せようとした。
途端、千珠の周りは真っ暗になった。夜暗の中で戦っていたのだからもともと暗くはあったのだが、今千珠が刃を突き立てた場所は、まるで光のない全くの闇だ。
突然のことに驚き、千珠は辺りを見回す。
「なんだこれは……!?ここは、どこだ」
ふと背後に気配を感じて、素早く振り返る。
少し離れた先に、血まみれの夜顔が立っていた。
光など差さない闇の中であるにもかかわらず、夜顔の姿は妙に明るくくっきりと浮かび上がって見えた。
「な……に?」
血にまみれた夜顔の姿が、みるみる幼い頃の千珠に変化していく。
長い鉤爪からぼたぼたと滴り落ちる、真っ赤な鮮血。蒼白な顔色と、虚ろに見開かれた琥珀色の瞳。白い狩衣は返り血にまみれ、まるで赤い衣のような。
「……何だ、これは?」
ぼこ、ぼこと、幼い千珠の足元から土気色の人間の手が生え始める。その手は、千珠の足を絡めとりながら、ぬるりぬるりと千珠の身体に巻き付いていく。見る間にその数は増し、幼い千珠を地面の中へと引き摺り込んでゆく。
「……や、やめろ」
足首に、もぞつく気配。弾かれたように足元を見ると、千珠の足首に土気色の手が絡みついているではないか。その手から逃れようとしたが、身体が凍りついたように動かないことにようやく気付く。
ぼこ、ぼこ、と地面から生え出てくる腕の肉が腐り落ちてゆく。
ひときわ大きく地面が盛り上がったかと思うと、頭皮がめくれ、頭蓋骨が顕になった落ち武者が現れた。落ち窪んだ眼窩から腐り落ちかけた眼球をぶら下げて、苦しげなうめき声を発しながら、千珠の腰や腹にすがるようにまとわりつき、上へ上へと登ってくる。
「う……あ、いやだ……!!何なんだ、これは!?」
辺りを見回すと、そんな武者の姿で自分の足元は覆いつくされていた。
千珠は愕然とした。
『どうして……殺した……何で、どうして……』
『にくい……この邪悪な鬼が……にくい、にくい……』
これは、戦で殺した武士たちなのか?
恨み言を言いながら、自分の身体にまとわりついてくる武者の身体を、千珠は必死で振りほどこうとした。しかし、一向に身体は動かない。
「……やめろ、やめろ、来るな!!」
千珠は恐怖に駆られ、そう叫んだ。武士の手は、千珠の顔にまで伸びてきていた。肉が腐り、骨が剥き出しになった指が、千珠の口からその体内へ入り込もうとする。
「いや……!!やだ!!やめろよ!!!」
『来い……こっちへ、来い……その美しき身体、嬲って嬲って……喰らい尽くしてやろう……』
『美味そうな……肉だ、寄越せ。よこせ、よこせ……』
千珠がもがけばもがくほど、その身体はずるずると地中深くに飲み込まれてゆく。腐臭が鼻をつき、口内を犯されるおぞましい感覚に、千珠の目から涙が流れる。
「いやだ……!!いやだぁあ!!」
――殺したくて殺したわけじゃない!!あれは、戦だったのだ!!
そう思おうとしたが、どこかで違う声も聞こえてくる。
《本当にそうだといえるか?本心では、人間を恨んでいたのだろう?一族を皆殺しにした人間どもを、殺したいと願っていたではないか……。くくく。憎しみに駆られて僧兵を殺したときの血の滾り、思い出せ……》
重く暗い声だったが、それは紛れも無く自分の声だった。
「違う、違う!!俺は……国を守るために……!!」
《護る?お前が?何を護れるというのだ……?》
「やめて!やめてくれ……!!」
千珠は涙を流しながら叫んだ。気が狂いそうだった。
《お前は鬼の本能に身を任せ、人を数多斬り殺した。己の欲を満たすために……》
「違う!!違う違う違う!!!」
――……千珠!!
不意に、誰かが自分の名を呼ぶ。
亡者たちの腐肉に溺れそうになりながらそちらを見ると、小さく鋭く光る、白い光が見えた。
そして、胸の中で燃え上がる炎の熱を感じた。
それと共に、遠くから聞こえる懐かしい声。
――……千珠!
これは……誰?
――お前の世界は、こっちやろう!!
眩く白い炎が、千珠を一気に包み込んだ。同時に、千珠にまとわりついていた武者たちが一瞬で灰燼と化す。
千珠は、我に返った。
今も口内や喉に腐肉がまとわりついているような心地がして吐き気がした。げほげほと咳き込み、激しくえづいた。
眼を開くと、そこは元いた場所だった。
血の匂いと焦げた土の匂いの立ち込める、あいも変わらず悪夢の中のような場所に膝をついてへたりこんでいる。
朦朧とする意識を振り切るようにして顔を上げると、すぐ間近に夜顔の闇色の瞳があった。
その瞳には、まるで底なし沼のように深い闇が渦巻いてい
る。ぞっとするほど、深い闇だ。
千珠は、動けなかった。
幻術のせいではない。夜顔の瞳から、ぼろぼろと溢れる涙を間近に見てしまったからだ。
――何で、泣いている。
涙が、頬にこびりついた血を洗い流すように、後から後から流れ出る。
そしてその虚ろな瞳の中に、幼き頃の自分の姿が写っているのを、見つけた。
――孤独と、憎しみ。
――この子は、俺と、同じ……。
動けぬ千珠の頭上に、黒い炎を宿した夜顔の手がゆっくりと挙がる。
――やられる……!
宝刀は間に合わない。
どうする!?何か、何か、攻撃できるものは……!?
千珠は、何とか持ち上がった右手で、自分の耳朶から耳飾りを引き千切った。
振り下ろされる夜顔の腕をかわしざま、耳飾りをその喉元に思い切り突き立てた。つぷ、と、肌を突き破って深く突き刺さる手応えがある。
先端の尖った細長い円錐状の、赤い耳飾り。母の形見であり、千珠の妖力を御しやすくするための枷。
不意を突かれた夜顔は小さく呻いて首を押さえると、後ずさって尻餅をついた。
今まで千珠の力を抑えていた耳飾りが、夜顔の妖力を引き込むように吸っている。陽炎のように夜顔の全身を覆っていた黒炎が、みるみるその勢いを失ってゆく。
夜顔は顔を上げて、まっすぐに千珠を見た。
虚ろに空を写していた漆黒の瞳が、千珠の琥珀色の目を真っ直ぐに捉える。
二人は見つめ合った。
血の匂いと土煙の立ち籠める、地獄のようなこの場所で。
「……だ、れ……?」
夜顔の白く乾いた唇がそう呟くのと同時に、突如、空から大量の破魔矢が降り注いできた。
「夜顔!!危ない!」
見たことのない男が、へたり込んでいる夜顔の身体を抱えてその場から連れ去った。一瞬だけ千珠と視線を絡ませたその男の瞳には、様々な感情が渦巻いているように見えて、はっとする。
――助けた?この子を。
千珠の背後に、黒装束の陰陽師たちがずらりと立ち並んでいる。全員が弓をつがえ、その切っ先はまっすぐに猿之助に定まっていた。
「とうとう現れたな、佐々木猿之助!神妙にお縄につけ!」
陰陽師の一人が声を上げる。それが合図かのように、あちこちから紙人形が猿之助に向かって鋭く飛びかかってゆく。陰陽師の使役する式神だ。
猿之助はかつての仲間たちを嘲笑うと、印を結んで自分たちの前に玉虫色の防壁を張り、難なくそれを跳ね除けた。
「はっ!こんな術、俺に防げぬとでも思うてか!?馬鹿どもめ!どこまでも追ってくるがいい!」
高らかに笑う猿之助の声が、みるみる遠くなる。一際濃い霧に巻かれた佐々木たち気配が遠のいていく。
「追え!!逃すな!!」
四方八方で陰陽師たちが動きまわり、松明の火が辺りを明るく照らし、東本願寺は騒然とし始めた。
ともだちにシェアしよう!