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十一、再会
千珠は、朦朧としながら味方の陰陽師たちを眺めていたが、ふと槐のことが気に掛かり、立ち上がろうとした。
しかし膝に力が入らず、千珠は再び地面に手を着いてしまう。
――気分が悪い……吐きそうだ。
生まれて初めて幻術を食らった。見せつけられたおぞましい幻影の不快さが尾を引き、千珠の精神はぐらぐらと揺れていた。
耳飾りを引き千切った千珠の耳朶から、ぼたぼたと血が流れている。
その血の赤が、幻術の中の風景を呼び起こすように千珠の心を揺らすのだ。
「……くそ……くそっ。何なんだ、この気持は……」
自分の世界が、崩れそうになる。今まで積み上げてきたものが、無意味なもののように感じられて喚き出したくなる。
苛々して、悲しくて、悔しくて、もういっそのこと、幻影にのまれて狂ってしまえば良かったとすら思ってしまう。
不意に鋭い頭痛と吐き気に襲われ、千珠は思わず右手で口を覆う。うまく息が出来ず、苦しくて堪らなかった。
――孤独、恐怖、恨み、殺意、絶望……。
落ち着け、この気持ちは……あの子どもの感情が流れ込んだだけなんじゃないのか……?
――いや、違う。これが本当の俺の、気持ち……?
「千珠!!」
遠くから、懐かしい声がした。
幻術の中で、千珠に一縷の光を与え、現実へ引き戻した。
一番、聞き親しんでいた。
ずっとずっと、すぐそばで聞きたいと願っていた。
――舜海……。
「おい!千珠、大丈夫か?」
肩に触れる大きな手。
暖かく、力強い霊気。
太陽のような、この匂い。
――舜。
気力を振り絞って、千珠はゆっくりと顔を上げた。脂汗が流れ、意識が混濁して視界がぼやける中、自分をまっすぐに見つめるあの目を見つけた。
はっきりと結んだ焦点の先には、懐かしい目があった。千珠を心配そうに見つめる、黒い瞳。力強く凛々しい光を湛えた、あの瞳が。
「……舜……」
「どうした!?どこか、傷を負ったか!?」
その張りのある声、しっかりと抱き留められた身体。
千珠は安堵して、その衣に縋り付く。
「……舜海……!舜、海……!」
千珠は掠れた声で、何度も何度でもその名を呼んだ。待ち侘びていた明るい笑顔を見つけて、千珠は心底安堵していた。
「千珠、もう大丈夫やで」
――自分を抱き、身体に触れるこの感触。本物だ。
これが、現実……。
「舜……。やっと、会えた……」
再び遠のいていく意識の中、千珠は舜海の目を見つめて微笑んでいた。切な気に微笑み返す舜海の頬に触れ、そのぬくもりを確かめる。
包み込まれる安堵感に、張り詰めていた糸がぷっつりと切れる。
千珠は、そのまま意識を失った。
✿
胸にしがみついたまま眠りに落ちた千珠の肩を、舜海はしっかりと支えた。全ての体重を自分に預け、瞼を閉じている千珠の蒼白な顔を、改めて見下ろす。
「……久しぶりやな、千珠」
舜海は穏やかな声で千珠にそう囁いた。こんな状況の中ではあったが、懐かしさと喜びについつい顔が緩んでしまう。
――ほんまに、ここにいる。千珠が、ここに。
もっと強く、抱きしめたい。
しかし今は、千珠の手当が先だ。舜海は気を引き締めると、千珠の身体を調べ、怪我がないかどうか確認する。
閉じた瞼が微かに震えて、長い睫毛がぴくりぴくりと動いている。初めて食らった精神攻撃に驚いた脳が、必死に情報を処理しているのだろう。
目立った怪我はないが、片耳の耳飾りが無くなっている。いつも千珠の頬の横で揺れていた、透き通る紅色の耳飾りが。
攻撃を受けた拍子に、奪われでもしたのだろうか。痛々しく引き千切れた福耳を手当してやろうと手を翳した時、背後から低い女の声が降ってきた。
「それが千珠ってやつか」
舜海が顔を上げると、そこには業平の娘、詠子がいた。弓を肩にかけ、たすきがけをして逞しい両腕を顕にしている。
その顔は、ひどく不機嫌そうだ。
「お、おう。そうやけど」
「ふうん……」
詠子もそこに膝をつき、千珠の顔を覗き込むと、目を見張る。
「これが、あの陀羅尼を追い払った鬼か?あの海神の龍を退けたという?」
「……そうやけど?」
「こんな、女みたいなやつが?私はもっと、強そうな男を想像していたのに」
詠子はがっかりしたような顔をして、舜海と千珠を見比べた。
「見たことなかったんか」
「陀羅尼の一件の頃、私は別の任に出ていたからな」
詠子はしげしげと千珠を観察し、そのままちろりと舜海を見上げる。
「国に大事な者がいるという噂がたっていたが、こいつのことじゃないだろうな」
「は?何やねんその噂。別にこいつは……。あ、そんなこと言ってる場合ちゃうやろ。こいつを陰陽寮に連れて来いって業平殿が……」
「おい、質問に答えてないぞ」
詠子は不機嫌な顔で舜海に詰め寄ってくる。
「いや、ほら、今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
「お、舜海お前。こっちで女できたんか」
とそこへ、槐をおぶった柊がふらりと現れた。詠子の問いかけにしどろもどろになっていた舜海は、渡りに船とばかりに柊の声に飛びつく。
「お、おお、柊!!久しぶりやなぁ!」
そして、柊の背にいる槐を見て、目を丸くした。
「お前……槐、なんでこんなとこにおんねん」
「……」
槐は怯えきった表情で黙りこみ、柊の背に顔を隠そうとしたが、ふと舜海の腕に抱かれている千珠を見つけて、がばっと顔を上げた。
「千珠さま……!」
「いててて!」
結い上げられた柊の髪を引っ張り、肩を乗り越えようとするような格好で、槐は身を乗り出した。そして、蒼白な顔色で微動だにしない千珠の様子に顔を青くし、わなわなと唇を震わせる。
「どうしよう……!僕のせいで、千珠さまが……死んじゃったぁ……うわぁあああん!!」
「ど阿呆、死んでへんわ!寝てるだけや」
「えぐっ……ううっ……ぼ、ぼんどうでずが?うえっ……」
「大丈夫やから、泣くな。とりあえず、こいつは陰陽寮へ連れて行くで。千瑛殿には柊から伝えておいてくれ」
「はいよ」
「ほんとに、大丈夫なのですか?」
槐は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を舜海に向け、尚も不安そうな表情をしている。舜海は、安心させるように笑い、ぽんと頭の上に手を置いた。
「当たり前やろ。千珠は強いんや、こんなことで死ぬわけないやん。ちょっと疲れて寝てるだけや。それに、別にお前のせいじゃない」
「……でも」
「そういう話は後や。夜が明けて落ち着いたら連絡するから待ってろ。ええな」
「はい……」
槐はいつになくしおらしく返事をすると、柊の背中に戻ってしがみついた。
柊たちが行ってしまうと、詠子はまた千珠をじろじろと覗き込む。
「なぁ、さっきの子どもと、こいつの顔……似てないか?」
舜海はぎくりとしたものの、それを表情に出さぬよう必死に努めた。
「に、にに似てへんやろ。それにこんな綺麗な顔、誰と似るっちゅうねん」
「……」
詠子は訝しげな表情から、次第に憤怒の形相へと変貌すると、舜海の太腿を思い切り蹴飛ばした。
「いってぇ!!何すんねん!」
舜海の問を無視して、詠子はどすどすと足音を轟かせて仕事に戻っていってしまった。
「……ったく、乱暴な女や。何で蹴られたんや、俺」
舜海はぶつくさ文句を垂れながら千珠を抱え直し、陰陽寮の置かれている土御門邸へと足を向けた。
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