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三十四、猿之助、動く

 夕刻。  佐々木猿之助が、都に現れた。  もちろん、一人ではない。藤之助、影龍を始めとした佐々木衆二十二名を連れている。そして藤之助の傍らには、夜顔の姿も。  猿之助一行は、下賀茂神社にて最後の軍議を行っている。もうすぐ芽吹きそうに見えた木々の新芽も、震えて引っ込んでしまうのではないかと思わされるような、冷えた空っ風の吹く中で。  風に揺れる木々がざわめき、加茂川の流れもいつになく澱んで見えるような、いささか不気味な夕暮れ時であった。 「さぁ、土御門邸を落とそうか!御所を攻めるのはそれからだ。お前たちは先立って、土御門の結界を破壊する支度をしておけ!残った者全員で土御門邸へ攻め込むぞ。皆定められた場所に潜んでおれ!結界を破り、夜顔を放り込んで騒ぎを起こす。それが合図だ!なだれ込め!」 「応!」  部下たちはめいめい頷き、馬を駆って薄暗がりの中へと消えてゆく。  その場に残った猿之助は腕を組んで影龍に問うた。 「佐為は結局戻らないままか?」 「はい。気配はあるので、死んではいないようですが」 と、影龍。 「やれやれ、業平に貴船のことは伝わってしまっただろうな。だからこうして、我々から出向いてやったわけだが」 と、猿之助は佐為を嘲るような口調でそう言った。藤之助は眉を寄せ、佐為を庇うため声を上げる。 「佐為は、簡単に口を割る男ではないぞ」 「あんな軟弱な餓鬼、すぐに吐かされたに決まっている。猿之助様、申し訳ありませんでした」  影龍は苦々しいものを吐き出すようににそう言い、猿之助には恭しく謝罪の言葉を捧げている。 「もういい。いずれにせよ、近々土御門邸は落とすつもりだったのだからな」  猿之助は(ただす)ノ森の中、生い茂る樹木によって狭く切取られた空を見上げた。暮れなずむ空は、そろそろ群青一色に染まろうとしている。  夜顔の前に屈み込むと、猿之助はじっとその黒く虚ろな瞳を覗き込んだ。そして夜顔の頭を撫で、暗示をかけるかのように言い聞かせる。 「たとえ力を封じられていたとしても、お前は強い。人間など太刀打ちもできぬほどにだ」 「つよい……?」 「そうだ、強い。誰よりも。その力を振り絞れ、もっともっと、人間を憎め。お前を孤独に追いやった大人たちを思い出せ。真っ暗闇で一人泣いていた惨めな過去を思い出せ」 「こど、く?……みじめ?」 「そうだ、憎いだろう?恨めしいだろう?」 「にくい……にくい……」 「お前は、俺のためにあの白い鬼を殺すのだ。いいな。あれはお前の敵なのだ。憎たらしい人間共を守るなどとほざいている敵なのだ。お前が殺せ、いいな」 「ころす……ころす……」  夜顔はぶつぶつとそう呟き始めた。両の目からぼろぼろと涙が溢れ出し、瞬きするごとに瞳の色が一段と闇くなる。  藤之助は痛々しい表情を浮かべ、夜顔に歩み寄ろうとした。しかしそれは影龍に阻まれてしまう。 「藤之助様はこいつに情をかけ過ぎです。土御門邸へは、猿之助様が夜顔を連れてゆく。あなたは私と行動していただきますよ」 「しかし……何かあったときに兄上で抑えきれるのか?」  藤之助の言葉に、猿之助は鼻で笑う。 「はっ!馬鹿者、お前にできることが俺にできないと思ったか。何かあればまた術で縛るだけ」 「しかし……」 「藤之助、いい加減にしろ。お前、本当は俺に従いたくなどなかったのだろう?」 と、猿之助は笑みを浮かべたまま藤之助にそう詰め寄った。藤之助はじっと表情を変えずに猿之助を見返す。 「そんなことはない。私だって姉上の恨みは晴らしたい。それに……兄上は唯一の家族だ、放っておけない」 「ふん、そういうところが甘いというのだ。お前の育てた若者が土御門衆には随分といたな。本当に奴らをやれるのか?」 「くどいぞ、兄上」  藤之助がぴしりとそう言うと、猿之助は満足気に笑った。 「まあいい、影龍とうまくやれよ」 「ああ」  藤之助は、猿之助の傍らで自分を見上げる夜顔に視線を移す。夜顔は少し困惑したような表情をしているように見えた。  そんな夜顔に、藤之助笑顔を向けると、 「大丈夫だ。兄上とおゆき」と声をかける。 「……とうのすけ」  夜顔が、藤之助に手を伸ばす。しかし猿之助によって馬上へと引っ張り上げられてしまい、その手は藤之助には届かなかった。 「とうのすけ」  藤之助は、不安げな顔の夜顔を安心させるように、ただずっと、笑みを浮かべていた。そして、自ら手を伸ばして夜顔の手に触れてやる。  冷たく小さな手が、藤之助の指をしっかりと握り返した。 「後でまた会おう、夜顔」 「……」  二人の手は、猿之助が馬を駆ったことでするりと離れた。夜顔が自分を振り返って探しているような姿を見送る間ずっと、藤之助の胸はじくじくと痛んでいた。  ごめんな、夜顔……。  またお前に人殺しをさせてしまう。  兄上を、止めることができなかった。  ……すまない、本当に。  影龍はそんな藤之助の横顔を冷ややかに眺めていたが、そんな感傷に付き合わされるのはごめんだと言わんばかりに、わざと物音を立てながら馬に乗る。 「我々も行きましょう」 「ああ」  藤之蔵は大きく息を吐き、疲れたような表情で馬に跨がり、そのまま南へと下ってゆく。  徐々に日が傾き、山々の影が都に落ちる。 人々は俄に吹き始めた荒んだ風に怯え、皆が帰路を急ぐ。  そして山の影がいっそう濃く長くなった頃、都の中には濃い霧が立ち込め始めた。  

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